「この曲がった時代から救われなさい」   創世記2:18-24

曲がっているものが全く見えないとするなら私たち自身が曲がっていると言えます。

二年前の終戦記念日に私の親友が結婚式を挙げました。そのとき平和を家庭で創るようにしてくださいね、という話をしました。平和というのは二人で作り出すものだなあ、と思っていました。二人だから争いが起こるということができるでしょう。私たちは全く違うものとして創造されましたから、一致していくのには色んな忍耐や寛容や覚悟や決意などが必要になってきます。

しかし、二人いるから争いが始まるかというと、そうではないのかもしれません。始めは一人だった、一つだった夫婦があるときから二人別々の方向に歩むようになっていって、子供ができると三人別々の方向に歩む者になっていく。そのようなものであるなら、私たちはある意味で争う相手を創り出しているようなものです。

神さまはアダムとエバをとても愛して、環境を整えて、争いの種はなるべくなくしたいという思いで人間を創ったのですが、その平和はすぐに崩れてしまいました。

自分の方が正しい、自分より相手の方がちょっと間違っている。ほんの少しの思いで、私たちはいつでも争うことができるのです。

それを終わりにすることのできるのが、神さまの新しい創造、イエスさまの十字架を受け取ることなのです。弱い自分を認めて、イエスさまの十字架の前に立つのです。そこでイエスさまから全く新しい生き方を受け取るのです。それは天から注いでくるものなので、この地上にあるものではないのです。

神さまはこの新しい創造を一人一人にプレゼントしたいと願っておられます。それは戦争を起こすことのない心です。その心で人間関係を創っていくなら、神さまの祝福が流れて、隣にいる人までが平和を感じたり信じたりすることが出来るのです。

イエスさまは二千年前に十字架で何の罪を犯してもないのに、犯罪も犯さなかったし、誰の悪口も言わなかったのに、犯罪者の有罪判決を受けて、その時代に最もひどい刑罰で罰せられて殺されてしまいました。それは私たちの争いを生みそうな心を、平和を生み出す川の源流へと作り変えるためでした。イエスさまを心の中心に歓迎してお迎えしましょう。そして、争いのない世界を作るということがどういうことなのか、神さまに直接聞きながら、毎日を過ごしていってください。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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