2019年8月11日

「強くあれ。雄々しくあれ。」 申命記31:6

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

「ロビンソン・クルーソー」の話は大抵の人が知っているだろう。彼は孤島に漂着した時、自分の置かれた状況について、冷静にマイナスとプラスの対照表を作っている。悪いこととして〝救出される望みもない孤島に投げ出された〟が、良いこととして〝ほかの船員はみんな死んだが私は生きている〟と、記している。さらに〝孤独に耐えねばならない〟が、〝食べ物はある〟。〝着る物はない〟が、〝熱帯地方だから着なくて平気〟。眼の前にある悪い条件に対して、一つ一つそれを補うことを書き出し、決してマイナスに圧倒されない自分を明らかにする。

今やモーセは120歳となり、命の終わりが近づいていた。仲間に遺言の言葉を述べる。「私は、きょう、百二十歳である。…主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない』と言われた」(申命記31:2)。なんと、約束の地へ入れないと言う。この言葉は重大である。モーセはエジプト脱出以来、何を目的として生きて来たのだろうか。その生涯の終わりにあたり、唯一の目標、カナン入りを禁じられたのだ。だがモーセは、〝年々に わが悲しみは深くして いよいよ華やぐ 命なりけり(岡本かの子)〟で、死を目前に、赤く燃える火のように明るさを増す。

「あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである」(申命記31:3)。

モーセはヨルダン川の手前にとどまり死を迎えるが、民の先頭には神が立つ。神が民を導き、ヨルダン川を渡らせ、出エジプトのプロジェクトを完結させる。モーセを支えた光は、神がなお民を導くことであったが、具体的には後継者ヨシュアがモーセに約束されていたことであった。一般的には、自分の死を予告され、しかも人生の目標も叶わないとなれば、自分の後継者の話題、ヨシュアの存在も不愉快に思われるだろう。だがモーセは違っていた。権力追求や、自己追求から解放された神の人であった。モーセの生涯は、自分を目的とせず、神の目的のためにささげられていた。だから、自分の死や人生の虚しさも乗り越えられた。人間が、死や虚しさに打ち負かされるのは、自分に執着しすぎるからである。モーセの場合、その生涯が終わろうとしていても、それは彼にとって致命的なものとはならなかった。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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