2019年8月4日

「和解」 ルカ22:60~62

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

ラフカディオ・ハーンの作品に「和解」がある。女を捨てて遠い国へ行った男が、懐かしく思い再び帰ってくる話である。だが捨てられた女はとうに死んでしまい、亡霊となって男を迎えるのだが、「和解」の題名通り、女は男の心変わりをすべて許し、温かく迎え入れてくれる。それほどまで愛していた女の切なさが、ひしひしと伝わる味のいい怪談である。

不安はイエスを身悶えさせる。ゲッセマネの祈りである。この時、弟子たちはこぞってイエスへの忠誠を誓っていたが、信じられないような裏切りの連続が続く。信頼した三人の弟子たちが、イエスの願いにもかかわらず眠りこけている。一度ならず三度も…。弟子のユダがやって来た。イエスを売ったのだ。この時、イエスへの忠誠を誓った弟子たちはどうしたのか。「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。ある青年(マルコ)が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた」(マルコ14:50~52)。裏切りと言えば、忘れてはいけないエピソードがある。「ペテロよ。はっきり言っておこう。鶏が鳴く前に、お前は三度わたしを裏切るだろう」。

イエスの死と復活をもって、聖書の内容も新しい局面へと移る。弟子たちは、故郷のガリラヤに帰っていた。「久しぶりに魚でも捕るか」。「じゃあ、俺も行く」。「俺も…」。舟に乗ったのは、ペテロ、トマス、ナタナエル、ヤコブ、ヨハネ…主たるメンバーはほとんどそろっていた。だがその日は一匹も捕れない。「腕がにぶったなあ」。「まったくだ」。湖畔に誰かが立っている。その人影が「何か食べる物はあるかね」と尋ねた。「それが、無いのです。何も捕れなかったのですから…」。「じゃあ、舟の右側に網を打ってごらん。捕れるから」。「本当ですか」。試しに網を入れてみると、たくさんの魚がかかった。ペテロはその瞬間、人影が復活のイエスだとわかった。岸に向かって泳ぐペテロ。岸辺ではイエスが炭火を起こし笑っていた。まさに「和解」そのものではないか。イエスはパンまで用意しているではないか。イエスは「さあ一緒に朝飯を食べよう」と、パンをちぎり、ほどよく焼けた魚を差し出す。朝食が終わると、三度イエスは尋ねた。「ペテロよ。わたしを愛しているかな」。ペテロは三度こたえた。「もちろんですとも。主よ」。これで、三度の裏切りを帳消しにしたのだろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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