2019年7月21日

「怒りと愛」 エレミヤ31:20

基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司

映画のワンシーンである。青年フランソワは、愛してはいけない人を好きになった。マルトには夫がいるからだ。ある日、マルトが熱病に冒される。青年は家の近くまで行くが、面会できるような筋合いではない。突然、玄関のドアが開き、夫が現われる。青年は男に近づき、とっさの思いつき。「すみません。タバコに火を」。男は火をつけてくれる。青年は必死に男の顔を見つめる。男の表情から、愛しい人の容態を計り知ろうとする。男は火をつけて立ち去る。男の表情を凝視する青年の魂が、ひしひしと伝わってくるシーンである。

本来、罪人は、神にとって愛してはならない存在だ。それを、愛してしまったのだ。

アウグスティヌスは、「罪とは何か?罪とは赦していけないもののことだ」と述べている。神が完璧な裁判官、裁き主の側面を持つのは言うまでもない。先月、結婚願望の強い女から大金を受け取り、浪費した男の捜査資料を読む機会があった。詐欺として起訴できる物的証拠がなく、男に騙す意思があったかを立証しなければならない。騙す意思…心の問題なので立証できない。男は証拠不十分で不起訴になった。完璧な裁判官である神が「判決を言い渡す。被告がかわいそうだ。よって無罪。騙された女のほうが馬鹿だ。これにて閉廷!」。罪を赦すとこういうことになる。罪を赦せば、赦した者が罪に定められるだろう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

神が愛した〝世〟とは、神に背く罪人たちのことである。ルターは、「ゴルゴダの丘で、神と神とが闘った。罪人に死を命じる怒りの神と、罪人を愛してしまった神とが闘った。このジレンマ、〝怒りと愛〟。この板挟みの先に十字架がある」と述べている。

「判決を言い渡す!」。正義の神、怒りの神は、大きな石を振り下ろし、何度も何度もあなたを殴った。眼の前に広がる無惨な有様、一面血の海だ。大きな石で何度も殴られたのに、私は傷つかなかった。愛の神、赦しの神は、あなたを殴ることができない。罪人の頭を押さえ付け、あなたの頭を殴る代わりに、自分の手を何度も何度も打って、血を流し、罪に対する裁きを執行された。「被告は無罪!これにて閉廷!」。キリストは、あなたの罪を背負い、最後の一滴まで惜しまず、血を流してくださったのだ。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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