2019年7月7日

「母鳥を悲しませてはならない」 申命記22:6~7

 基督聖協団目黒教会 横山聖司

江戸時代、伝馬町の牢獄内は狭く、罪人が多い時には横になって寝ることができない。それで病人やいびきのうるさい者は、夜中にヌレ紙を鼻口に当てて、数人で圧して窒息死させた。死刑囚同志が牢獄で殺し合う、凄惨な姿だ。「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」(申命記21:22~23)。叙述全体が寒々しい。神から見捨てられた罪人の姿である。だがパウロにより、これが十字架につけられたキリストの姿に引用された時、不徹底な人間の誠意(繰り返し、繰り返し、日々、犠牲の子羊を捧げる)に対する神の解決が見えて来た。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)。独り子イエスが神に呪われ、罪人として十字架にかけられた。イエスは叫ぶ。「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」。

続いて申命記は記す。「たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない」(申命記22:6~7)。この戒めは、ひなや卵を取ること自体を禁じているわけではない。ただ、母鳥を悲しませないようにと命じている。子どもを奪われた親の悲しみを、鳥にまで適応する徹底したヒューマニズムである。そして…本当の感動は次の事実の中にある。独り子イエスを失い、奪われた父なる神の痛みであり、悲痛である。見捨てられる側よりも、見捨てる側の方が辛かった、誰がそれを否定できるだろうか。もちろん父なる神と子なるキリストとの間で、十字架という暗黙の約束があったのだろう。神は、暗黙の約束を守り通したのだ。よし、それが、ひなを奪われた母鳥のような苦しみであったとしても、日々、犠牲のいけにえを捧げるギリギリの人間の誠意に応えよう。たとえ、「この苦き杯を取り除いて下さい」、子なるキリストの祈りにも、父なる神は首を縦には降らないだろう。すべては人間の救いのため。 人生には、こんな心意気があっても良いのではないか。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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