2019年5月26日

「サタンの誤算」  マタイ27:39~44
 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
 十字架に掛けられ苦しみイエスを見て、群衆の中から「おい、救い主だろ。だったら十字架から降りて、自分を救ってみろ」と、罵りの言葉と一緒に笑いが飛ぶ。サタンは本気だった。十字架から降りてもらわねばなるまい。「道を行く人々は…イエスをののしって、言った。『…もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。』同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。『…今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。』…イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。(マタイ27:39~42、44)。
 十字架は神の裁きにほかならない。永遠の初めから三つにして一つ、父と子と聖霊は一つであり知恵と恩寵の光を放ってきた。十字架は、父なる神と助け主なる聖霊が、初めて首を振ってイエスを見捨てる瞬間だった。だからイエスは恐れ慄いたのだ。「『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。』…イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:42、44)。〝自分を救う〟それはイエスにとって悪魔の声だった。
ルカ16章に、地獄に落ちた金持ちの話がある。「…私をあわれんでください。…私はこの炎の中で、苦しくてたまりません」(ルカ16:24)。十字架とは、人間の滅びの運命を身代わりに背負うことである。荒野の三つの誘惑のときのように、サタンはここでもイエスを誘惑したのではなかったか。地獄の運命、その人間の身代わりになるとはこういうことだぞ。地獄の王、堕天使ルシファーが翼を動かすと、炎の風が起こり、罪人たちが溶けていく。生きたまま炎の町を行く亡者の群れ。熱にもだえる者たちの悲鳴がおびただしい。炎の上に伏し、うずくまり、振り払っても振り払っても火炎がまとわりつく。真っ赤なタールが煮えたぎる炎の池。そこで罪人たちがドロドロに溶けていく。その悲惨さはただごとではない。
「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」(マタイ27:40)。
イエスは叫んだ。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)。こうしてイエスは息を引き取った。サタンにとっては、大誤算であった。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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