創世記18:17
 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
 〝ルンルンルン〟と電話のベルが鳴る。「もしもし。〇月の○○集会で説教して下さいな」。知り合いの先生からだ。「いいですよ。何分位ですか?」「40分位で、テーマは神の愛でお願いします」。「わかりました」。話は簡単に済む。この間1分。数か月後、再び電話のベルが鳴る。「もしもし。〇〇団体ですが、説教、一本撮らせて頂けないでしょうか」。インターネット放送の番組らしい。業界の実情もよくわからない。あれこれ理由を挙げ、丁重に断る。向こうも簡単には引き下がらないが、よくやく諦め電話を切る。時計を見ると5分も話していた。
 旧約聖書を読み感じたのだが、預言者に神のことばがくだる。神から電話がくるようなものだ。「もしもし。モーセか。わたしはあなたの神、主である。イスラエルの苦しみの声がエジプトから届いた。同胞を救い、出エジプトしてカナンを目指せ!」。大変なことを命じられてしまった。何とか断らなければなるまい。「無理です。他の人にさせて下さい」。「お前に命じるのだ」。「私は口べたです」。「しゃべる方は、アロンに任せることにする」。「主よ。同胞が私の声に耳を傾けるはずがありません」。「つべこべ言うな!」かなりの長電話である。
ノアのもとでも電話が鳴る。「神はノアに仰せられた。『…地は、彼らのゆえに、暴虐で満ち…今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは…ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。…箱舟に天窓を作り…一階と二階と三階にそれを作りなさい』」(創世記6:13~16)。私なんかプラモデル一つまともに作れないのに、三階建ての箱舟を作れ!と命じられ、「わかりました」、1分で電話を切れるだろうか。ノアは簡単なものである。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」(創世記6:22)。人は、引き受ける時にはつべこべ言わず、わりと簡単なのかもしれない。私の場合もそうである。ノアの場合もそうである。みなさんの場合も、きっとそうであるにちがいない。
アブラハムの場合もそうである。「わたしが示す地へ行きなさい」と命じられた時も、甥のロトに豊かな緑の低地を譲った時も、息子イサクを捧げよと命じられた時も、決して長電話ではなかった。ここに信仰の父と呼ばれる由縁があるのだろう。
従う時には覚悟を決め、「はい」ひとつで済ませるのが肝要ではないか。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です