2019年4月21日
「復讐と赦し」  マルコ15:34
 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
 アンドレ・カイヤック監督の「眼には眼を」はすごい映画だった。物語は、アラブ社会の小さな町の病院に勤める白人医師の家に、現地人の男が訪ねて来て、「急病の妻を診てくれ」と言う。自宅では診察はできない。「病院に行くように」と断ったが、翌朝、病院に出勤すると、彼の妻は死んでいた。仕方ないことだったが、アラブ人の夫は割り切ってはくれない。医者が町から100キロほど奥まったアラブ人の町に往診に行くと、車が壊され、町に戻るバスは三日も待たなければ来ないらしい。そこへくだんのアラブ人が現われ、「町まで行く道を案内しよう」と言う。ところが道は砂漠の奥へ奥へと向かう。医者はその男と別れて自力で戻ろうと考えるが、それは危険すぎる。引き返す道もわからない。男は「今度こそ本当に案内する」と言うが、再び裏切られ、ますます砂漠の奥へと引き込まれる。(よし、こうなったらこの男のそばを離れてはなるまい。そうすれば助かるはずだ)と考えるが、男はすでに死を決意していた。自らも疲れ果て、死に直面したアラブ人は、遠くの山を指さし、「あそこに登れば町が見える」と苦しい息の下で告げる。医者が這うようにして傾斜を登れば、視界はさらに荒涼たる山塊と砂漠が拡がるばかり。
イスラム過激派の犯行声明にも使われる言葉、「眼には眼を」。死んだ女の夫の復讐劇だ。復讐で愛の深さを測る文化がある。まさに「肉を斬らせて骨を斬る」、捨て身の復讐だ。
「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22:44)。ゲッセマネの園…イエスは、苦しかったのだろうと思う。イエスはすでに知っていた。「ペテロよ。今夜、三度わたしを裏切るだろう」。「ユダよ。あなたのしようとすることをせよ」。「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ。眠っているのか…」。そして、十字架に磔られる、ただごとではない苦しみ。思い描くことさえ恐ろしい。さらに、人間の罪を背負い、神に見捨てられる心理的恐怖。十字架の最大の恐ろしさは、神に見捨てられ、神に罰せられる恐怖だ。イエスは十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫んだ。父と子と聖霊、永遠から永遠への愛の交わり、三位一体が初めて途絶え、父なる神、助け主なる聖霊が、首を振ってイエスを見捨てた瞬間だった。「肉を斬らせて骨を斬る」、イエスは捨て身の覚悟で、救いの道を切り開く覚悟だ。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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