2019年4月7日
「人間の心」  ガラテヤ2:20~3:4
 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
 人間の心は、そう簡単に変われるものではない。ガラテヤの教会…人々の心は戸惑い、揺れ動き、次第に古い主人・キリストから、新しい主人・律法へと心が移って行く。
 「キリスト」と「律法」との間には、共通点と相違点とがある。共通点は、両者とも、人間の肉(自己中心)の性質の変革を意図している点だ。相違点は、「律法」が、人間の変革を束縛の性質で成就しようとするのに対し、「キリスト」は、十字架の愛で変革を迫る。まず、「律法」について考えてみよう。律法とは、掟や道徳を網羅したもので、これで人間を変革しようと試みる。だが、肉の性質に抵抗を命じる律法は、人間に束縛感を与える。人は束縛されると「いやいやながら」、掟や道徳と向き合うようになる。しかも律法は、掟の厳守を救いの条件とした。律法がこれを救いの条件としたことで、ますます束縛や締め付けがきつくなり、「いやいやながら」を助長する。こうなると反動的に、人は古い肉の性質に逆戻りするようになり、いよいよ肉は律法に対して反撃を試みる。律法が命令を強化すればするほど、人は反動的に、律法の命じることとは逆の方向へと引かれて行く。パウロはこれを次のように表現した。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」(ローマ7:7~8)。律法は、人間を監視、監督して、束縛する。
 アウシュビッツ強制収容所、コルベ神父がガイオニチェックの身代わりとなり、命を捨てた話は有名だ。解放後、毎年8月14日、神父の犠牲に感謝を捧げるため、アウシュビッツ巡礼を欠かさなかった。自宅の庭には、記念碑を建て、「私が生きるために死んでくださった彼の犠牲に感謝を込めて」と文字を刻んだ。
 教会は二千年間、キリストの犠牲に感謝を込め、十字架を犠牲の象徴として掲げてきた。十字架を見つめるたびごとに、私を愛し、私のために命を捨てて下さったキリストの犠牲を思って、感謝を捧げる。
 私たちは外から迫られ、肉と決別するのではない。キリストの愛に迫られ、肉と決別する。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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