2019年3月31日
「義の栄冠」  Ⅱテモテ4:6~8
 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
 〝ヨブ記〟をミュージカルに仕立ててはどうだろうか。ヨブという男がいた。神を敬い、忠実である。十人の子どもに恵まれ、東の国きっての富豪だ。第一幕目…神とサタンが話し合っている。「ヨブほど、正しい男はいない」。「そうでしょうか。ヨブの財産を奪って下さいませ。神を呪うでしょうから」。ヨブの幸せを奪い、その信仰を試せとの提案だ。第二幕目…突然、召使いが駆け込んで来て、ヨブの財産すべてが、ならず者に奪われ、10人の子どもたちが災害で亡くなったとの報告が届く。ヨブは茫然自失。いま私は、ミュージカルヨブ記を帝国劇場で鑑賞している。鑑賞しながら、―神さまを信じ、これでヨブは満足できるのかなあ―と考える。ヨブは、どんな言葉を口にするのだろうか?ヨブの台詞は、まだかまだかと待つテンションが、鑑賞者の心を引く。―えっ、口を開いたか!―「ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』」(ヨブ1:20~21)。すべてを失ってみた時、初めて、(私にはもともと何もなかった。裸一貫で生まれたのだから、また裸で帰ればいいだけだ)と、そう思ったという。とてつもない洞察だ。第三幕目…神は満足そうだ。「やっぱり、ヨブの信仰は本物だったのう」。「そうでしょうか。ヨブの肉体を打ってご覧なさいませ。今度こそ神を呪うでしょう」。ヨブはたちまち悪性の病気に冒され、痛みはただごとではない。こんな姿の夫を見て、ヨブの妻が「これが神を敬ったあなたの末路ですか。神を呪って死んだほうがましでしょう」と嘆く。鑑賞者の私としては、―これでもヨブは、神さまを信じるのかなあ―と、否定的な思いが駆け巡る。―えっ、口を開いたか!―「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」(ヨブ2:10)。いいこともあれば、悪いこともある。それがこの世の真実の姿である。すべてを演じきったパウロは言う。「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」(Ⅱテモテ4:6~8)。〝義の栄冠〟、天国のアカデミー賞だ。今朝、私たちの演じ方はどうだろうか?(少し、ハラハラもしたが、立派に演じてくれたのう)、神も満足して下さるだろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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