2019年3月17日
「イエスとイスカリオテ・ユダ」  ヨハネ13:2~5
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
ユダは遅ればせながら、自分の罪に気がつく。ユダは慟哭し、銀貨三十枚を握って、祭司長、長老たちに返しに走った。こうした行為の延長線上に、生きて、幸福に暮らす方法はなかったのだろうか。イエスとユダとの関係は、裏切られる者と裏切る者。二人がこの関係を突破して、固い絆で結ばれるためには、いくつかの厄介がないでもない。ユダについて言えば、〝イエスへの裏切り〟、この忌まわしい現実を、生涯直視しなければなるまい。憎悪、叱責、反感、軽蔑、冷笑、ありとあらゆるネガティブなものを浴びせられ、それに耐えて生きなければなるまい。激しい自己嫌悪も充分に予測される。前途は決して安閑とした道程ではあるまい。だが〝案ずるより産むがやすし〟という俚諺にも一定の真実が含まれている。裏切りから出発して幸福を掴んだ例も、決して世間にないわけではない。古い律法が支配する旧約の時代ならいざ知らず、イエスのもとで罪を犯したのならば、いくばくかの困難はあるにせよ、〝悔い改め〟という手続きさえ踏めば、ユダが生きる道は許容されているのではないか。イエスの弟子として、しかるべき月日を過ごしたユダが、そのことを知らないとは思えない。にもかかわらず、ユダが途方もない死に出の旅を選んだのはなぜだったのか?煎じ詰めると、ユダは死を選んだ人間として登場する定めだったのかもしれない。言ってみれば〝死にたい症候群〟。本当に死を選ばなければならない状況かどうかは、ほとんど吟味されていないのではないか。
ユダには裏切りを決行する数時間前、これを回避するチャンスを十分持っていた。最後の晩餐の最中、イエスは床に跪き、弟子たちの足を洗い始めた。イエスは、その人、ユダの足も洗う。悔い改めの最後のチャンスだった。(ユダよ。悔い改めよ。人生に、遅すぎることはない。和解せよ。なすべきことをなせ。今すぐに…)。イエスは、その人の足を洗う。(ユダよ。聞け。わたしは、99匹をさしおいて、迷った一匹を捜す。辻褄は合っているのだ。)
「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは…夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(ヨハネ13:2~5)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です