2019年3月10日
「どこへ行くのか?」 Ⅰヨハネ2:1
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
ヨハネによる福音書8章に、法の番人、司法制度の象徴、律法学者とパリサイ人が登場する。彼らは、ひとりの女を立たせて、イエスに迫った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」(ヨハネ8:4~5)。モーセの律法という絶対的権力を持って君臨する司法制度、―うかうかしていると、どんな人でも、いつ有罪にされるかわからんぞ―と、そんな観測が心の中にひろがってくるが、「もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです」(Ⅰヨハネ2:1)。
司法制度のターゲットは、姦淫の女よりもイエスその人である。「彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった」(ヨハネ8:6)。この女は、この思惑の中の一部分であり、見ようによってはこの思惑に押しつぶされる一犠牲者に過ぎない。―イエスは有罪になるのかなあ。こんなんじゃ起訴さえ難しいだろう―と、私などは思ってしまう。姦淫の女の方は、有罪が言い渡されても仕方がないだろう。現行犯だし、黒と断定される理由もあっただろう。イエスの弁護が待たれる。イエスの前で、罪人が罪人として裁かれ、滅ぼされるなら「弁護士イエス」の看板に〝偽りあり〟である。この偽りは、キリスト教界の根本を揺るがすものとなるだろう。
罪を訴えて止まない彼らの叫びに、イエスは言った。「彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」(ヨハネ8:7)。「罪のない者」とイエスは言った。裁く者たちは、年寄り、年長者から、一人また一人と立ち去った。―自分にも罪がある―、それを感じただけでも、年の取りがいがあるというものだろう。「罪のない者」と言われ、絶対的権力をふるって裁く司法制度の象徴的存在は、一人また一人と、イエスのもとから立ち去った。彼らはどこへ行ってしまったのだろうか?イエスのもとを離れ、行くべきところがあったのだろうか?イエスのことばを聞き、罪を知った彼らが、ここを離れて、どこにまことのことばを求めることができるのだろうか?

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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