マタイ27:18~19
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
ピラトについて言えば、イエスの無実を知りながら、結局は旧勢力と妥協し、死刑を宣告した人と、その事実は変えられないが、それとは別に、最後までイエスを救おうとしたその努力も見え隠れに記されている。「ピラトは…言った。『よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。』それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに『さあ、この人です』と言った。」(ヨハネ19:4~5)。「見よ、この人を」、ピラトとしては「この男に罪があるかどうか、よく見てくれ」という気持ちだったろう。(いい人だったのか、悪い人だったのか、よくわからない)、そんな気がしてくる。
ピラトとイエスとのかかわりは、〝イエスに出会った人〟として、閉じていない。心地よくその終幕が閉じていない感じがする。ピラトの立場は微妙だった。イエスの無実を確信していたからである。だが結局は、祭司長たちに押し切られていく過程が、福音書に克明に記されている。だからといって、最後までイエスを救おうとした事実が消えるわけでもない。まだ先があるような、扉が閉じていないような感触が残る。だから、どうのこうのと言うのではない。イエスに出会った人、ピラト。これもひとつの人生である。聖書が罪人の救いを扱い、罪人たちを登場させる以上、私たち読者を安心させるような結末が、そう都合よく用意されているものではない。イエスと出会ったにもかかわらず、イエスの側につこうとしたにもかかわらず、結局は周りに押し切られて魂の救済にはならない、そういう現実もあると福音書記者は言いたかったのだろうか。そして、そんなピラト的なものが、自分の姿の中に見え隠れするのも本当である。ピラトの姿を追いながら、私自身、イエスの前でよい人だったのか、悪い人だったのか、どういう存在なのかを自分に問う。
「そこでピラトはイエスに言った。『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答えられた。『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。』ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。』」(ヨハネ18:37~38)。
扉はまだ閉じていない。私には…これからまだ先がある。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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