マタイ5:48
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
イエスの母マリヤの思いは、(わからないことの多い人生だったわ)、であっただろう。結婚もしないうちに身籠った処女懐胎にはじまり…、ある日には藪から棒に、夫ヨセフが天使のお告げを受けたと言い出した。〝エジプトへ逃れ、ヘロデ王が死ぬまでそこにとどまれ〟。聖家族はエジプトへと旅立った。マリヤにとっては、わからないことが多すぎた。折々に交わされる息子イエスとの会話も、合点のいかないものが多かった。迷子になった12歳のイエスを、神殿で見つけた母が言った。「お父さんも私も、心配して三日間も探していたのです」。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのが、当たり前だと知らなかったのですか」。当然、両親にはイエスのことばの意味がわからない。「カナの婚礼」はどうだろうか。イエスと母は、知人の結婚式に出席した。祝宴が進むにつれ、酒が足りなくなる。「ブドウ酒がなくなりました。何とかしてあげて下さい」。「婦人よ。このことについて、わたしとあなたの考えが違います。わたしの時は、まだ来ていません」。イエスの反応は冷ややかだった。もう一つ気がかりなエピソードがある。母と弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。ある人がイエスに「母上とご兄弟たちが、お話したいと外に立っておられます」と告げる。イエスは答える。「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とはだれか。わたしの天の父の御心を行なう者が、わたしの兄弟、また母である」。こうした気配に対し、深い神学的意味があるのだろうが、思いはむしろ、それらのことばを聞いた時の、母マリヤの当惑、寂しさ、悲しみに思いを馳せる。「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」(ルカ2:19)。
昔の格言に「良いことはすぐに言え。悪いことは明日言え」がある。手紙やメールの送信に関しても、自分の感情や心情を吐露したような文章は、すぐには送信したり、投函したりはせず、せめて一晩くらいは寝かせておくことが肝要だろう。翌日読み返し、その文章に興ざめし、それを破棄した経験が、今日の自分の幸せと無関係ではないだろう。
イエスの母マリヤ。何万人の中からでも、(心の美しいこのお方)と見つけ出せる…。その思わせるものとはいったい何なのか?「しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」(ルカ2:19)。この記述に、秘密があったのではないか。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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