ローマ9:4~5
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。ヤコブはラケルを愛していた」(創世記29:17~18)。
ここを読みながら(女性は大変だな)と思った。美しいか否か、女性は人生の道中で、ほとんど、常にと言ってよいほど、頻繁にこの評価に晒される。これは相当にわずらわしく、十分に腹立たしいことである。評価のありようも単純ではない。評価が決定的な意味を持つ場合もあるし、ほんの座興でしかないケースもある。予測のつく場合もあるが、なんの心の用意もない時に、突然、評価されるケースも多いだろう。いつ、何時、当の女性の都合に関係なく、勝手に、露骨に、どういう物差しを当てられるかわからない。はなはだ迷惑な話である。無視するよりほかにないが、簡単には無視できないし、無視すること自体がいわれのないエネルギーの消耗であり、それがまたわずらわしい。
「ラケルは不妊の女であった。レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、『主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう』と言ったからである。彼女はまたみごもって、男の子を産み、『主は私がきらわれているのを聞かれて、この子をも私に授けてくださった』と言って、その子をシメオンと名づけた。彼女はまたみごもって、男の子を産み、『今度こそ、夫は私に結びつくだろう。私が彼に三人の子を産んだのだから』と言った」(創世記29:31~34)。これは、愛されない女レアの、ヤコブに対する執着である。レアは、夫を独占したい欲求からのみ、子を産み続けていく。一方、不妊の女、妹のラケルは、自分の女奴隷ビルハに代理出産をさせ、「『私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った』と言っ…た」(創世記30:8)。愛憎の炎は溶鉱炉の火のようで、熱気は我々をも焼き尽くしそうである。
聖書が、罪人をターゲットとし、救いをもたらす書であるなら…救いは当然、レアやラケルを目指すであろう。人間の愛憎、そこにベクトルを合わせ、神の救いは加速度的に進むだろう。ここが肝要であり、聖書が人間の汚らしい姿を描く、それは必然的なことである。
今日教会が、レアやラケルについて考えるとき、その評価のありようは単純ではなく、どういう物差しを当てられるかわからない。教会の評価など、無視するよりほかにない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です