マタイ5:21~28
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:21~22)。
イエスの訴えは、(なぜ、そんなことを考え、思いついたのか)、心の中の問題、〝思い〟についてであり、それが罪となり現われてくる。なぜ、そんなことを考えたのかを追求すれば、そこに人間のドラマがあるだろう。イエスにとって〝憎しみ〟は、〝殺人〟と同じ意味を持っていた。もしも、こうしたイエスの発想に、大きな感化を受けるとするなら、人は、発狂するか、信仰を持つか、二つに一つである。
イエスの時代も現代も、ユダヤ社会には食物上の厳密な禁止事項がある。豚肉、エビ、カニ、タコ、イカ、貝類…これらは汚れを身に招くと信じられていた。だがイエスは、そんなものは根本的な禍の原因ではないと断定される。禍はどこからやってくるのか? 「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ7:20~23)。カニ、エビ、イカを食べなければ、神の心にかなう。信仰はこういう律法主義の方が楽である。「あなたの心から出るもの、それが禍の原因だ」と、指摘されて困るのが人間だ。
だが、考えてみよう。心の中の思いを追求すれば、そこから絢爛と生まれてくるのが〝罪〟である。そして、罪意識のすぐ先にはキリストがおられ、イエスの救いがある。罪意識もないような面白みのない生活は、キリスト者の美意識には合わない。心の中の思いを追求する、それは人間回復の宣言のためにある。汚れた心、その私を、イエスが赦して下さる。(良い人間になろう)などという戒律、律法を、信仰の目標にしないほうがいい。イエスの赦しがある。「僕は罪なんか犯したことがない」と言う時、人間には救いに近いように聞こえても、イエスにとっては救いに果てしなく遠い存在だと、心得ておかなければならない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です