2019年1月6日
「きわどい場面での信仰」  Ⅰ列王記19:8
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
あれほどの武勇を天下に示した預言者エリヤが、悪女イゼベルの脅しに屈したのはなぜなのか?イゼベルという女が、狂気に満ちた人格の持ち主であること。周囲では実際、エリヤの仲間が数多く殺されていたこと。災害や飢饉も深い影を落とすといった具合に、様々な条件が焦点をひとつに結び、強い恐れの状況を作っていたのだろうか。「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりを入って行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。『主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから』」(19:3~4)。エリヤが疲れ果てて眠っていると、み使いがパンと水を差しだし、こう言った。「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」(19:7)。これは、きわどい場面での語りかけである。
野球の審判が、ツー・ストライク・スリー・ボールの状況で、(この投手はコントロールが良い)と思っているか、(この投手はコントロールが悪い)と思っているかで、同じきわどい球が、ストライクに見えたり、ボールに見えたりする。きわどい場面で、神の語りかけをどう受け取るのか。きわどい場面で、自分の信じる神をどう思っているかで、神のことばがストライクに見えたり、ボールに見えたりする。きわどい場面で、立ち上がることが出来たり、出来なかったりする違いのようなものだ。
エリヤは、このきわどい場面で立ち上がる。「彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた」(19:8)。このきわどい場面で、目指すはホレブの山。そこは、神の語りかけ、神の律法が与えられた民族の原点である。この原点に立ち返り、望みを新たにさせられたいとの念願が、エリヤの意識下にはあった。神もエリヤの信仰に応え、ご自身を現わしてくださった。「風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。…『エリヤよ。ここで何をしているのか』」(19:11~13)。
きわどい場面で、静かにご自身を現わそうとする神の語りかけを、どう受け取るのか?

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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