2018年12月23日
「人となられたイエス」 ピリピ2:6~7
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
鮭の卵、イクラを見て考えることがある。鮭一腹に一万個くらいあるだろうか。―これがみんな大人の鮭になれば、地球上が鮭だらけになるのではないか―。だがそんなことは起こらない。首尾よく受精して稚魚にかえっても、幾多の障害が待っている。故郷の川へ帰れるのは、ごくわずかだ。鮭はそれを知っているから、あれほど沢山の子を産むのだろう。鮭が知っているという表現が適当でなければ、〝神が〟と言い替えてもよい。一万個の卵の中から、ほんの数匹が生き残る。それが神の摂理だ。少し視点は異なるが、人間の場合はどうなのか?「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。人間の場合、「ひとりとして滅びることなく」(3:16)、これが神の摂理である。
中南米の森に〝アリクイ〟が生息している。細長い粘着性の舌で、一日数万匹ものアリを食べるという。私自身、アリを踏まぬよう、注意を払い、近くの林試の森を散歩する。その森に、アリクイが現われたらどうしよう。私は、アリの救い主、メシヤにならなければなるまい。〝アリたちよ!天敵が来るぞ!巣に逃げ込みなさい!急げ!急げ!〟。だがアリたちは、人間の言葉を理解するはずがない。私は、アリの救い主にはなれないだろう。私が、アリの救い主になれるとするなら、私がアリになり、アリの姿をとり、滅びに突き進む群れの前で立ちはだかる以外に方法はない。私がアリの姿をとれば、私自身、天敵に喰われるリスクもあるだろう。何かを救う、誰かも救うとはそういうことだ。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:6~8)。勝手気ままに暮らし、罪の滅びに向かって突き進む人間。人間の救い主であると言うのであれば、人間になり、人間の姿をとり、人間と共に歩む以外に道はない。人間の姿をとれば、そこには天敵がひしめいている。殺されることだってあるだろう。「実に十字架の死にまでも従われました」(2:8)とはそういうことだ。
これが、神の子イエスの誕生、キリストのクリスマスである。
礼拝メッセージ
わが愛するもの
2026年1月18日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり「わが愛するもの もっと見る