2018年12月16日
「キリストの証人」 ヨハネ3:16
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
ダビデ王が、人妻バテ・シェバを奪う。その後「主がナタン(預言者)をダビデのところに遣わされた」(Ⅱサム12:1)。神が人生で働くときには、こうした形をとることが多い。
人間が神に対し罪を犯した場合、旧約では二つのカテゴリーがそこに現れる。一つは、神に見捨てられ、神がその人のもとから離れ去る。二つ目は、神の罰、悪しき報いがその身にくだる。前者は、悔い改めることにより神との関係を回復できるが、後者は必ず残る。ダビデ王は、悔い改めることで神を失うことはなかったが、その報いはすぐにくだった。まず、バテ・シェバとの間に宿した子が、生まれてすぐに死んだ。それだけではない。ダビデ王の長男アムノンが、異母妹のタマルを犯し、タマルと同じ母を持つアブシャロムが復讐の鬼となり、アムノンを殺害する。近親相姦と近親殺人、これら悪しき報いがダビデ王家を襲った。
ダビデ王は、アムノンの死を悼むよりも、兄を殺害したアブシャロムを悲しんだ。アブシャロムを、息子たちの中で、一番愛していた。アブシャロムは、そんな父の愛も知らず、(親父を討って、天下をとるぞ)と、謀叛を企てる。最愛の息子と戦陣を交える父・ダビデ。最後の決戦の日がやって来た。父・ダビデは三人の指揮官に向かって、「我が子アブシャロムを、穏やかに扱うように」と命じている。だが、アブシャロムは戦死する。「我が子よ。なぜ死んだ。お前の代わりに、私が死ねばよかったのに…」と、父は身を震わせ泣いたと言う。
アブシャロムの謀叛は、ダビデの生涯にとり最悪の経験であった。だが父ダビデは、この経験を通し、キリストを指し示す証し人の可能性が与えられた。反逆する子を愛する父の姿。子を失う父の痛み。新約聖書の中心メッセージは、反逆する人間を愛する父なる神の姿であり、独り子イエスを失う父の痛みである(ヨハネによる福音書3章16節参照)。
ダビデ王家に起こった出来事、そこから生じる欲望、嫉妬、不安、抵抗等、それがこれを書き留めた記者の脳裏を充たす関心事であった。暗いと言えば、少し暗い。だが(人生とはこんなものですよ。それを知っていれば、きっと役に立つこともあるでしょう)と、呟いているようなところもある。ダビデ王家に起こった世界は、暗くて、切ないかもしれないが、どこかに温かさがあるのも本当だ。人間を見据えた上の、(現実はこの通りだけど、希望を持ちなさいよ)といった不思議な力が漂っている。生きてゆくための力である。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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