2018年12月9日
「イエスを見る者」  ヨハネ9章
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」(9:1)。ここから私たちに対する問いかけが始まる。「生まれつきの盲人」(9:1)。彼は、身体の中に、そういう因子をもって生まれたのだろうか。実情はどうなのだろう。
ノーベル文学賞作家に大江健三郎氏がいる。大江氏が、結婚してできた子どもは、生まれつき脳に障害を持っていた。父親としての苦しみは、大変なものだろう。はじめ光君は、言語能力が失われていて、しゃべることができないと思われていた。ところが小学生くらいの時、森で鳥の鳴き声を聴き「あれは、クイナです」としゃべったと言う。そこから理性や言葉で語るのとは違った、音の世界、森で鳴く鳥のさえずりが奏でられ、音を通して深いものを感じ取る音楽の才能が開花する。光君の作曲する音楽には、傷ついた者を癒す力がある。
「イエスは…地面につばきをして…つばきで泥を作られ…盲人の目に塗って言われた。『行って、シロアムの池で洗いなさい。』…彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った」(9:6~7)。だがその後、眼を開かれた男は、耐えがたいほどの痛みを負わされる。「ユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放すると決めていたからである」(9:22)。「会堂」とは「シナゴーグ」のことで、宗教施設であると同時に、役所のような役割も担っていた。福祉、教育、冠婚葬祭等、「会堂」から追放されれば、教育も結婚の機会も奪われるだろう。市民権剥奪に等しい。
その日、盲目の男が、初めて眼を開き、そこで見たのは〝イエス〟であった。眼の前のイエスは、こう訴え、迫って来た。「あなたは人の子を信じますか。」(9:35)。信じれば、市民権剥奪…。出会いとは、こんなにまでも切なく、切実なことなのか。それでも男は、「『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」(9:38)と言う。男は、そんな因子をもってこの世に生まれ、それがゆっくり現われるよう、宿命づけられていたのだろう。
結末は、男を追い出したパリサイ人らに対する、イエスの痛烈な皮肉だ。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(9:41)。盲目の者がイエスを見、見える者たちの眼にイエスが見えていない。これが本当の問題だと訴える。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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