2018年12月2日
「よくなりたいか」  ヨハネ5:6
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
作家、石川達三が「幸福の限界」の中で、結婚生活を十何年か送ったひとりの妻に、こんなことを思わせている。(結婚の幸福も、家庭の喜びも、やがては地獄となり、抜け難い罠となると思ったのは、逆さまではなかったか。人間の生活は、男性にとっても、女性にとっても、初めから地獄なのだ。…そして、この地獄の中に、自分の天国を築こうとする…ささやかな天国を守り育ててゆくのが、人間の生きる道ではなかったか)。含蓄のある言葉だが、私たちの人生がはじめから地獄であるかどうかは別として、人間の生活が地獄になる可能性も、そこに天国をつくり出す可能性があるのも事実である。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)。「心の貧しい者」、(よくわからないなあ)という声が聞こえてくるようだが、よく考えてみれば、心が満月のごとく満たされている人など、めったにいるものではない。ほとんどの人が、満たされていない。それを明確に意識することが、心に神の国が開かれる第一歩ではないか。男に騙され、お金を巻き上げられた女性が「私って、バカね」、ポツリとつぶやいた。騙された自分の弱さ、痛み…それらを自分で率直に見つめられるようになれば、失意からの回復も早い。「天の御国はその人たちのものだ」(マタイ5:3)。
ヨハネ5章1節~9節に「べテスダの病人」の話がある。病人たちの信じるところによれば、時々、み使いが天から降りて来て、池の水をかき回す。〝それっー、動いた!〟水の表面が動いた時、一番最初に池の中に飛び込んだ者は、どんな病気も癒されると信じられていた。「エルサレムには…ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって…その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた」(5:2~3)。「盲人」、水が動いたのが見えないのです。「足のなえた者」が、一番初めに飛び込めるだろうか。(いつか、なんとかなるだろう)、(そのうち、どうにかなるだろう)と、呪われた希望にのぞみを繋ぎたくなるのが、私たちの実情だ。不確実性の時代です。私の人生も、ベテスダの池、そのほとりのようなものだ。それらを自分で率直に見つめられるようになれば、失意からの回復も早い。「天の御国はその人たちのものだ」(マタイ5:3)。「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」(ヨハネ5:6)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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