2018年11月25日
「人生の退屈さ」  Ⅰテサロニケ4:11~12
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
歴史小説に、加藤清正の孫、光正の話がある。退屈に襲われ、退屈さのあまり、家臣の茶坊主にあくどい悪戯を行なう。それが五十四万石没収、現職解任の原因となるのだから、この退屈しのぎの悪戯は高くついた。もっとも幕府の方は、密かに加藤家の取り潰しを画策していたのだから、結果は同じだったのかもしれない。高山に流された光正について、作者は、〝わずか一年の間に死んだのは、将来の長い、単調な怠惰な生活を思って、耐えられなかったのかもしれない〟と綴っている。この作品の発端は、人生の退屈さであった。
「私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ…」(Ⅰテサ4:11~12)と、パウロは勧める。たとえ人生が退屈であっても、自分の働きや仕事に誇りを持ち、外の人々に立派に振る舞うとの気構えが大切ではないか。「ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています」(Ⅱテサ3:11)。人生の退屈さのあまり、あくどい悪戯を行なった。退屈しのぎの方向性が間違っている。「こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」(Ⅱテサ3:12)。
大哲学者インマヌエル・カントの生涯は、まるで機械のように規則正しく、変化のない日々の積み重ねで、その生涯を閉じた。だがカントは、息を引き取る直前、〝Es ist gut〟(これで良い)と言い残し、この世を静かに去った。彼は自分が生まれた町を一度たりとも離れなかった。カントは、生活の変化を何より嫌った。生活の変化は、仕事の妨げ、思索の障害になると考えたからだ。余計な物は一切、身の周りに置かず、家具、調度、その他の用品は常に決まった場所に置かれ、その位置を少しも変えてはならなかった。いつも心を平静に保ち、仕事に集中するためだ。カントの哲学は、彼の生活から生まれた思索の結晶だった。
「仕事」という字は、〝事に仕える〟と書く。仕える事が、仕事なのだ。また、「働く」という字は、にんべんに動くと書く。人のために動くこと、それが働くことだと言う。もし、私に生きる意欲が失われ、人生に退屈さを感じているとするなら、人に仕える、人のために動く、人を愛する気持ちが失われているのかもしれない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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