2018年11月11日
「一本の道」 Ⅱコリント6:2
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
将棋の名人が「何十手先まで読んだ」と言う時、それは本当の全部ではなく、これから到達するであろう中継点の幾つかの図柄が、頭に浮かぶのではあるまいか。
救いの歴史(救済史)を将棋にたとえるとどうなるのだろうか。神は初めから終わりまで、すっかり読み切って救いの歴史を導いているのだろうか。救いの歴史を七つの時代に区切って現わす聖書解釈がある。ディスペンセーション神学だ。
① 罪のない時代。 ② 良心(善悪を知る)の時代。 ③ 人間による統治の時代。 ④ 約束(契約)の時代。 ⑤ 律法の時代。 ⑥ 恵みの時代。 ⑦ 御国の時代、である。
もちろんこうした〝ディスペンセーション主義〟の立場に立たない福音派の教会もあり、本当のところは神さまに聞いてみなければ分からないのが実情だろう。
人生について言えば、いつも一本の道しか選べないものである。二本の道を歩こうとしたら、たちまち股が裂けてしまう。たくさんの道があるように見えて、実際たどれるのは一本の道だけだ。
①「罪のない時代」があったが、そこでアダムとエバは一本の道を選ばなければならない。禁じられていた木の実を食べるのか、食べないのか。④「約束(契約)の時代」もあったが、民らは一本の道しか選べない。「約束」を信じるのか、信じないのか。⑤「律法の時代」もあったが、イスラエルの民の前には、幾つもの分かれ道が広がっていたわけではない。「律法」を守るのか、守らないのか。一本の道しか選べない。⑥「恵みの時代」も、たどれる道は一本しか選べない。ナザレのイエスを、救い主メシヤ・キリストとして、信じるのか、信じないのか。
今、私の眼前には、十字架にかかられたキリスト、この一本の大いなる道が開かれている。忘れてはいけない。人生について言えば、いつも一本の道しか選べないことを…。
救いの歴史を七つの時代に区切って現わす〝ディスペンセーション主義〟は、(本当にそうかなあー)と、首をかしげることもないわけではない。いずれにせよ、あの時代、この時代、七つの時代…、(いつの時代にも人間は、一本の道しか選べないのだなあー)、〝ディスペンセーション神学〟を勉強してみて、このあたりが私にとっての収穫だろう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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