2018年11月4日
「キリストの系図」  マタイ1:1~18
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
松本清張の作品に「砂の器」がある。主人公の和賀英良の父は、ハンセン病患者である。そのため幼い頃、父と共に故郷を追われ、放浪の生活を送る。転々とする親子を、親切な警察官が保護する。警察官は、隔離施設に入るよう父を説得し、親子は離れ離れになる。優しい警察官は、ひとりになった英良を引き取り、我が子のように可愛がる。だが英良はそんな生活に馴染めず、家出をして自転車屋の店員になるのだが、空襲に遭い、店の主人夫婦は死んでしまう。そのとき彼は、戸籍を作り替える(空襲で戸籍が焼失したため、実際に可能な時期があった)ことを思いつき、自転車屋の息子になり、ハンセン病の父を持つ過去の自分と決別する。その後、有名な音楽家になり、元大蔵大臣の娘と婚約をする。そこへ、昔、実の父と自分を救ってくれた警察官が現われる。実の父がまだ隔離施設で生きていた。「息子に会いたい」との願いを叶えたいと、親切な警察官が英良のもとへ訪ねて来たのだ。
考えてみれば、誰の人生にも忌まわしい過去がある。大部分の人間は、普通の暮らしをしながら、自分の恥辱の時代を誰にも語らず、ひっそり胸に隠して生きているのだろうか。もし、そんな私の前に、忌まわしい過去を暴露しようとする者が現われたら、何が何でもそれを阻止するだろう。殺人さえ犯すかもしれない、と考えれば、「砂の器」はリアリティを持って私の心に迫ってくる。私たちの人生には、ほんのひと時だけ、人には語れない過去を持ったという事実は、よくあることだ。
さて、過去の自分を捨てるため、戸籍を変更して別の人生を歩むという発想だが…新約聖書の冒頭に、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とあり、何十人もの人名が書き連ねてある。イエスの系図、戸籍のようなものだ。これは男系の系図であるが、例外的に四人の女性の名前が含まれている。これら四人の女性は、ジャンヌダルクやエリザベス1世のような輝きを放つ女性たちではない。タマル(近親相姦の罪)、ラハブ(遊女)、ルツ(異邦人)、ウリヤの妻(不倫)。記載の必要ない男系の系図に、わざわざ記録したのはなぜなのか。これは、罪や恥をともに背負って、人間と共に歩むイエスの本質を現わしている。それが、同じ系図や同じ戸籍に入ることの意味である。恥も苦しみも、一緒に背負って生きていく。その先には、十字架を背負うイエスの姿があった。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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