2018年10月28日
「悲しむ者の幸せ」  マタイ5:4
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
信頼していた人から、裏切られ女性が「ひとりぼっちではない、ちとりぼっちになってみたい」と、つぶやいた。(結局人間は、ひとりぼっちなんだ)。そのような諦めを、誰かに、何かに、しっかりと支えられている状況の中で、味わってみたい。このような深い意味での願いを、多かれ少なかれ誰もが抱いているのではないか。自分を無条件で受け止めてくれて、決して裁かない大きな手の中で安心感を持ちながら、「ひとりぼっちではない、ちとりぼっちになってみたい」。それは、喫茶店に入って、誰かを待っている時の気持ちに似ているのかもしれない。遅れて来るのだけれど、確実にやって来て、自分の正面に腰を下ろす人を待つとき、周囲がどれほどさんざめいていようが、カップルが楽し気に食事をしていようが、羨ましいとも思わず、惨めな気持ちにもならない。そこに座る人のいる空席は、決して空席ではない。本当に辛いのは、そこに座る人のいない空席を目の前にした独り身の寂しさだ。
イエスは言われる。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5:4)。生きる苦しみ。病むことの辛さ。人間のあらゆる痛みや苦しみ、嘆きの根底には孤独感が含まれている。人間は、悩みがあるから、悩むのではない。痛みがあるから、痛むのでもない。悩みや痛みを、受け止めてくれる者のいない孤独…。それが人間の痛みであり、苦しみである。「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5:4)。悲しみがあるとか、ないとか、それが問題なのではない。本当の問題は(大丈夫、わたしが、そばにいる…)。そういう存在を持っているのか、いないのか。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。
(私だけを見つめていてほしい。私から眼をそらさないでいてほしい)。人間が人間である以上、その心は生きる意味と愛を求めている。愛は信じ合っている時が一番美しい。自分は何のために生きているのか?今、自分がしていることにはどんな意味があるのか?これについての答えが得られない限り、物も金も、虚しさを増すものではあっても、心を満たすものではない。現代は孤独で寂しい時代である。だからこそ、ひとりぼっちではない、ひとりぼっちになってみたい。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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