2018年10月21日
「中断と接続」  ヨハネ8:1~11
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
一つの人生を眺め返して、(この人の人生は、こういう一本道だったんだ)と、明白に見える人生にも、途中に奇妙な中断があったりする。日本プロ野球界の名選手、落合博満氏には、いっとき故郷の秋田でサラリーマンをしながら、草野球に励んでいた時期があったとか。プロの一流選手ともなれば、子どもの頃からコースは概ね決まっている。甲子園や名のある舞台で活躍して一本道、大人になって草野球などに決して励まないものだが、落合氏にはなぜか、不思議な中断の一時期があった。人生には、こうした奇妙な中断がないわけではない。
「イエスはオリーブ山に行かれた。…すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。『先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。』」(8:1~5)。この女の場合、それまでの人生が一本道であったかどうかはいざ知らず、奇妙な中断のひと時に直面していた。その中断は一時のものであったが、彼女にとって致命的になりかねないものであった。「石打ち」とあるが、彼女にとっては「石打ち」に問われるような出来事こそ、例外であり、この瞬間は、中断されたコース外の人生であっただろう。中断であればこそ、やがて元のところ、キリストの元へと接続される。それが罪に問われた時の生きる道だ。さらにこの中断が、彼女の意志というより、権力争いに狂った男たち、彼らの猛威によってもたらされたところに事件の複雑さがある。この出来事の悲劇は、一貫して彼女個人のものとして提示されるが、それがもっと大きな広がりを持っていたのである。「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」(8:7)。殺し文句もこれだけ綺麗に吐ければ、人生もよほど楽しいのではないか。一方、律法学者がパリサイ人の視点で眺めてみると、(完全犯罪は難しいよな)と思ってしまう。一つの事件が、キリストの前では予想外の展開に発展し、様々な影響力を発揮しながら、複雑に入り組んで人を救いに導く特殊性を帯びていく。この世の中とは大いに異なった結末が待っている。「イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(8:11)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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