2018年10月14日
「信仰が現われた以上」 Ⅱコリント3:6
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
中島敦の掌編に「文字禍」がある。昔、アッシリヤの図書館で、夜ごとに闇の中からヒソヒソと怪しい声が漏れる。不信に思った国王は、老博士エリバを召して、その正体を調べさせた。エリバは、闇の中の声は、文字の霊の声であることをつきとめる。続いて、文字の霊の性質を調査すると、文字を覚えた狩人は弓が下手になり、文字を覚えた戦士は憶病になった。そればかりか、文字を覚えた人間は本当の事実より、文字に書かれたことを信じるようになっていた。人間は、文字の霊に蝕まれている。こう悟った博士は、国王に報告した。「文字の霊は人間を滅ぼし、アッシリヤはやがて、文字の霊の奴隷となりましょう」。いったい文明は、本当に人間を幸福にするのだろうか。人間は文明の奴隷となり、文明に操られているに過ぎないのではないか。こんな疑問が、「文字禍」のモチーフとなったのだろう。
「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです」(Ⅱコリント3:6)。「文字は殺し」の「文字」とは、人間を文字による戒律で縛りつける、モーセの律法のことだ。「この戒めを守れば、幸せにしてやろう。だが、守らなければ、あなたの人生に禍が訪れる」。この「文字」に仕えて生きたのが、ユダヤ人だ。戒めを守る者には価値があり、価値のない者を愛するのは、人間には難しい。価値なき者は愛されない、そんな社会で生きる宿命を負ったのだ。「文字は殺し」(Ⅱコリント3:6)とは、そういうことだろう。
(私は、神にも人にも愛されていない。愛され、価値ある者となるため、もっと頑張らねば…)との自責の念。いつも何かが足りない。不十分…。自責の念を背負い、惨めにトボトボ歩く姿を、「愚かだ!」とパウロは訴えた。「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」(ガラテヤ3:1)。確かにキリストを信じて信仰を持つ前の私は、世の中の評価主義、文字の霊の呪いに振り回され、生きていた。「しかし、信仰が現われた以上」(ガラテヤ3:25)、そういう考え方はするな!そういうものの考え方とは決別せよ!
人生には勝利の秘訣がある。キリストは、何かを持ち、何かが出来るあなたのために十字架を負ったのではない。罪人のあなたを愛し、十字架についたのだ。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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