出エジプト1:17,20~21
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「ヨセフは彼らに言った。『恐れることはありません。…あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。』」(創世記50:19~20)。
人生、確かに、不幸が幸福の原因になったり、幸福が不幸の原因になったりすることがないわけではない。ヨセフがエジプトに連れて行かれたのは、兄たちの犯した悪が原因であったが、神はそれを良い結果に変えられた。具体的には、ヨセフが祝福されたのは、兄たちをエジプトに招き、イスラエルを飢えから救い出すためであった。これが人生の試練に耐えて生き抜くことだ。彼らはこの信仰によってエジプトに住み着き、そこで繁栄を見るようになった。神の圧倒的な祝福のもとで強くなり、一大勢力となったのだ。一方、不安に怯えたエジプト王は「イスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた」(出1:13~14)。ここに記されたことの意味を深く考えたい。彼らは再び、祝福と繁栄の外へ破れ出る現実に直面した。この場合、祝福の外へと脱落を誘発したのは「イスラエル人は…おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた」(出1:7)であり、彼らの繁栄が彼らに逆境を招いた。祝福がもう一つの新しい悪を招いたのだ。これは私たち信仰者に対する教訓である。「禍を転じて福と為す」、福が起きたとき、別の新たな禍が生じてきた。教会でも、このような意味での信仰の行き詰まりが多いのではないか。(神さまの御心がわからない…)と感じて、教会から離れるケースである。悪に対する神の勝利は、一回限りの静的なものではないだろう。生きた現実と取り組む信仰は、動きのある動的なものである。「悪」が「善」に呑まれて勝利が生じるとき、それを再び破る「悪」が現われる。神は、新たに現れた「悪」をも、再び「善」に変え、私を約束の地へと導いて下さる。さて、王の命令が下り、イスラエルの新生児は、男ならば、生まれてすぐに殺されることになった。この悪をどのように乗り越えるのか?「エジプトの王は…助産婦たちに言った。…『ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。』しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた」(出1:15~17)。だが、エジプト王の迫害は止まなかった。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です