2018年9月23日
「虚像」  民数記13:2~14:10
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「主はモーセに告げて仰せられた。『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。』」(民数記13:1~2)。
神が偵察を命じたことの意味を考えたい。イスラエルの民は、神に導かれていることを信じながらも、その導きが、先の見えない不確かな歴史の中で行われていることを知っていた。この不確かな人生、先の見えない歴史が持つ厚さと重みは、旅人たちが、カナンの地を偵察するよう命じられたことで明らかとなった。聖書は、一方的な神の導きだけを見ているわけではない。信仰は、見通しの利かない、不確かな人生の上で、初めて成り立つものである。
さて偵察部隊の報告は、客観的な判断に基づいていた「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。…しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました」(13:27~28)。これは「事実についての判断」であり、派遣された者たちの意見はこれで一致していた。問題が起きたのはその後である。神を信じる者には、「信仰による判断」があるからだ。ここから彼らの意見が分かれていった。一つの判断はカレブによって代表されていた。「カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから』」(13:30)。だが他の人々は、「彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。『私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。』」(13:32~33)。ここでは、事実に基づく判断が、さらに深刻化している。事実に脚色をして誇張し、実態とは異なる虚像が作られている。「民を静めて言った」(13:30)とあるが、静まり、冷静になり、よく考えれば、(こんな問題、大したことではない)と、気づいてよさそうなのに、実態のない虚像にこころ奪われる。のしかかる虚像。「その地に住む民は力強く」(13:28)との判断では、カレブも他の人々も一致した。(絶対、勝てる)と、初めから全て見えているような信仰ではない。(勝てないかも…)の判断が成り立つ状況で、(勝てる!)と判断した。これが信仰である。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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