2018年9月2日
「日常生活と信仰生活の調整」 出エジプト16:4
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた」(出エジプト16:2)。
今回の〝つぶやき〟は、エジプト脱出、この決定的な解決の後のことだ。民は海の中にできた通路を通り、対岸へ渡った。この解決は〝決定的〟解決で、彼らの神に対する態度は定まったはずだった。だが歴史や人生は、決してそのような結論を許さなかった。彼らは飢えて、つぶやいた。だが人間がつぶやく人生の中に、依然としてお働きになり、導きの手を差し伸べる神。それが「マナの奇跡」となって示された。「わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである」(16:4)。地上のつぶやきに対し、解決は天から与えられた。だがこのような神の奇跡的御業は、イスラエルのつぶやきに対する妥協ではない。「わたしは…パンが天から降るようにする」(16:4)。パンの問題、現実の問題を解決することと、神の教え、律法に従わせようとの試みを、神は同時進行的に進め、この二つを調整しようとしておられる。それが「民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである」(16:4)との言葉である。神は毎日、一日分の食糧だけを集めるように命じ、彼らはこの教えに従わなければならない。欲望、貪りの心に駆られ、二日分も、三日分も集めてはならない。旅人たちはマナを集めることができた。これにより彼らの当面の現実問題は解決される。だが、そのとき旅人たちは、神の教えに従わなければならない。彼らの中には、パンを二日分集めて、翌日まで残しておいた者がいた。すると、翌日の分は虫がわいて臭くなった。こうした日々のパンの問題の解決と、神の教えに従う信仰生活との調整、折り合いは、最後に安息日をめぐって究極の形をとった。神は、安息日の前日だけは、二日分を集めよと命じられた。翌日、安息日まで保存したパンは、臭くもならず、虫もわかなかった。これは神の配慮である。安息日は、パンの問題から解放され、身体を休めて神に心を向けるための日である。だがこの時もまた、安息日に外に出て、パンを集めようとした者もいた。マナが降らなかったのは当然である。だが、背いた者たちに対する神の態度は、驚くほど寛大だった。こうして旅人たちは、ようやく安息日を守るようになった。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です