Ⅰ列王記20:3
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
イスラエルの七代目は、異教の神バアルに仕える不信の悪王アハブだ。王も民も異教の神へと傾くのを見、奮起したのが預言者エリヤで、有名なカルメル山での戦いが始まる。450人のバアルの預言者が、バアルの神の名を呼び、「どうぞ天から火を下し、いけにえを焼き尽くして下さい」と祈っても、駄目だった。替わってエリヤがイスラエルの神に祈ると、たちまち天が割れ、火が降り、いけにえの牛が焼かれた。こうしてバアルの預言者450人は捕らえられ、近くの川で処刑される。この一件でアハブは、バアル礼拝の不信の王の烙印を押され、葬り去られたかのように思われた。だが聖書はその後、意外なことを記している。
アラムの王と、イスラエルの王アハブとの戦いである。イスラエルの王が、神に見放されたら、その結末は悲惨である。アラムは大軍を率い、イスラエルに攻め上る。明らかにアハブ王は劣勢で、勝てる気配はどこにもない。「アラムの王ベン・ハダデは彼の全軍勢を集め…イスラエルの王アハブに、言わせた。「ベン・ハダデはこう言われる。『あなたの銀と金は私のもの。あなたの妻たちや子どもたちの最も美しい者も私のものだ。』」イスラエルの王は答えて言った。「王よ。仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです」(Ⅰ列王記20:1~4)。これは無条件降伏だ。アハブは異教の神に膝を屈める悪王である。罰として、アラムに滅ぼされて当然だった。だが意外にも、アハブは神に見捨てられてはいなかった。アラムの威圧に屈したかのように見えたアハブ王は、考え直したのだ。どんなに悪い状況でも、私には考え直す余地が残されている。考え直したアハブは、側近たちを集め、アラム側の理不尽な要求について訴えた。側近たちは一様に、王はこれまでのような軟弱な態度を捨てて、腹を決めるべきだと厳しい口調で進言した。アハブ王は奮起し、アラムに使者を遣わし、前言を取り消した。アラム側の怒るまいことか。だがアハブは屈しない。アラム側に向かって「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない」(Ⅰ列王記20:11)と強い口調で訴え、一歩も引かない。アハブ王は変貌した。(あいつはこんな人間だから、こんな最後だな)。だが、歴史や人生は、公式主義化された見通し通りにはならない。アハブ王は、生きた人生という歴史の中で、不死鳥のように蘇り、剛毅な姿を見せた。私の生涯には、こういう逆転劇があるから、人生は捨てたもんじゃない。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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