2018年8月5日
「神の信任を受けて」 Ⅰテサロニケ2:4
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
かつて自民党初代副総裁の大野伴睦が、「猿は木から落ちても猿のままだが、議員は落ちたらもう議員ではない」とつぶやいたとか。
〝選挙〟と〝宣教〟は字が似ていて、共通点もあるように思う。パウロは言う。「わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである」(Ⅰテサロニケ2:4口語訳)。「神の信任を受けて」、英語の聖書では「judge(神の審判を仰いで)」が使われている。
6月24日、トルコで大統領選が行われ、エルドアン政権が国民の「judge(審判を仰いで)」再選された。今後、独裁色と強権政治が加速するのではあるまいかと心配する者のひとりだが、トルコ国民の信任を得たのだから、部外者の私がとやかく言うことではない。
ところで選挙の候補者は、やっぱり自分に清き一票を投ずるのだろうか。自分で自分を推挙するのはなぜか。これについてパウロは、「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」(Ⅱコリント10:18)と釘を刺す。
その昔、我が家の本棚に、インマヌエル教団の初代総理・蔦田二雄先生のエペソ書講解のカセットテープが収められていた。その内容は〝選び〟についてで、力と恵みに満ちていた。
「神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(エペソ1:3~5)。普通、私が考える教会生活と言えば、ある日、ある時、「じゃあ、信じてみようか」と、決意、決断することで教会へ行く。確かにこれがなければ、地上の教会は、彼を教会員として登録しない。これは大切な側面ではあるが、その背後、隠れたところではまったく異なることが言われている。私の決意や決断は、時間や歴史の中で行われるが、それを超えた、神の決意と神の選びがあったとパウロは訴える。それは「世界の基の置かれる前から彼にあって選び…」(エペソ1:4)とあり、歴史を超えた永遠の中で、私が選ばれ、〝あなただよ〟と決められていた。ここに、教会の確かさと、教会の根拠がある。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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