2018年7月15日
「信仰者の教本」 創世記39:21
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
日本テレビで「火曜サスペンス劇場」の放送があった。吝嗇の四十男が女に迷い、財産を失い、嫉妬にかられ、どんどん泥沼に落ちていく哀れさが画面を通して迫って来る。大人のための道徳教育の教本に加えてよさそうなドラマである。それなりの社会経験を積んだ男が、なぜつまらない女に騙されてしまうのか。心のどこかに、騙されてもよいとの思いがあるからだろう。嘘でもよい、大変な誤解でもより、確かに感じられる喜びを享受しなければ、生きて来た甲斐がない。人生には、そんな刹那の願望を満たす悪魔的な力が潜んでいる。
「サムソンとデリラ」、この男女の物語には暗い影がある。遠くから警鐘を鳴らし、少しずつ近づいて来るものがある。犬養道子女史は、二人の出会いを次のように描く。「サムソンは再び恋に落ちた。今度も相手はペリシテの女である。名をデリラと言い、右に出る者のいない美人であった。…ペリシテの長老たちは、好機至ると喜んだ。彼女のもとを訪れ、銀千百枚を贈り、サムソンの嫁となり彼の力の秘密を探って捕らえて欲しいと頼み込んだ。彼女は黙って銀を受けた。…サムソンはデリラを愛した。恋のため盲目となったサムソンには、女の心を読むことが出来なった」。サムソンが彼女の企みに気づかないはずはない。「二度も私を騙して、本当のこと教えてくれる」。「彼は死ぬほどつらかった」(士師記16:16)。彼の苦しみには二つの要素があった。一つは神から選ばれたナジル人としての自覚であり、もう一つはデリラへの執着、愛着である。神との秘密を守り、これ以上デリラを騙し続けるなら、彼女を失うことになる。彼女も最後のカードを切った。「私を愛していないのね。だから本当のこと教えられないのね」。サムソンにとっては心臓に触れられるほどこたえた。「それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。『…もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。』」(16:17)。髪の毛をそり落とされたサムソンは「主が自分から去られたことを知らなかった」(16:20)。最大の悲劇は、神が彼のもとから去られたことである。だが、私たちにはどんな時にも希望がある。サムソンの悲劇を象徴する髪の毛は、再び伸び始めていた。神の恵みと力が回復していったのだ。彼は力の限り柱を押し、神殿は崩れ、大勢のペリシテ人の上に落ち、自らも殉教した。こうしてサムソンの生涯は終わった。この話を、私たち信仰者の教本に加えたい。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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