「備えられた家」 Ⅰコリント2:9
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた」(ルカ16:19~23)。
〝Man is mortal〟お金があってもなくても、人間は死ぬべきもの。驚くべきことではない。
金持ちの主人は、暗い隧道の中で動いていた。歩いているのではないらしい。どこかに向かって、落ちていく感覚である。当然、相当な加速度がつくはずだが、なにしろ、周囲が光ひとつない真の闇なので、見当がつかない。(そんなバカな!)。金持ちの主人は気がついた。体験のないことだが、そのときが来れば誰でも見当がつくものなのだろう。死の国、ハデスに向かって、真っ逆さまに落ちているのだとわかった。そう考えれば、すべて辻褄があう。
今度は、貧乏人ラザロである。アブラハムのふところに抱かれ、天国へと引き上げられた。魂の光が冠のような輪を作り、舞いながら、神を賛美してのぼっていく。光り輝く素晴らしさを、どう表現したらよいものか。魂たちは〝ホサナ、ホサナ〟と、神を讃える歌を歌いながら、舞い、知恵と恩寵の光を放っている。その賛美の美しさは、ノアの契約を伝える希望の虹のように心に響くものだった。輝き合い、歌い合い、その調和がただごとではない。天国の賛美が甘やかに鳴って響く。その歌は…「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』」(黙示録21:3~4)。
「まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである』」(Ⅰコリント2:9)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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