2018年6月24日
「イエスの生き方」 ピリピ2:6~8
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
世界には様々な国があり、様々な民族がいて、それぞれに異なった国民性を持っている。同じ人類でありながら、言語、気質、風俗、習慣、みんな違っている。「福音のために、わたしはどんな事でもする」(Ⅰコリント9:23)と言ったパウロを取り巻く状況は、容易ならざるものであった。ここでパウロが数えあげる面々を見ると、気質も違えば、言葉、習慣、考え方も違う。ユダヤ人がいる。ギリシャ人がいる。律法の下にある人々がいる。律法を持たない人々がいる。奴隷がいる。弱い人々がいる…。パウロは、教会や自分の方針を押し付け、「俺の話をよく聞け!クリスチャンになれ!」と言ったのではない。ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、弱い人々には弱い者のようになり、多くの人を獲得するため、すべての人の奴隷になったと言う(Ⅰコリント9:19~23参照)。
これはイエスの生き様そのものだ。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました」(ピリピ2:6~8)。「彼は…のけ者にされ…病を知っていた。…彼は私たちの病を負い…」(イザヤ53:3~4)。病は、それを宿す人の性格に似ているのではないか。イエスの生き様は、エネルギッシュで、眼の前に困難があろうと不撓不屈、まっすぐに戦って突き進むタイプであった。だから身体に巣くう病も同じ性格、手当も薬もものともせず精力的に進行するのではあるまいか。ちょっとやそっとでは降伏しない。観測は不幸にも的中し、病は急速に悪化し、最期は壮絶な戦いのすえ身体のほうが敗れてしまう。もちろんこれは一つの比喩である。イエスが私の代わりに背負った罪という〝病〟は、手当も薬もものともせずに精力的に進行したし、ちょっとやそっとでは降伏しない。罪という〝病〟は、人間に死を要求し、不撓不屈、眼の前にどんな困難があろうとも、死に向かってひたすら突き進むタイプであった。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とある通りだ。
福音とは、神が仕える者の姿をとり、私のところにまで降りて下さり、人間の最後の敵である死を滅ぼすため、一緒に陰府の底にまでくだって下さった。これがイエスの生き様だ。
「神の下さる賜物は…主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です