2018年6月10日
「イマジネーション」 ヨハネ8:4~11
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」(8:4)。
〝殺し文句〟もこれだけ綺麗に吐ければ、人生もよほど楽しい。
罪が赦された〝姦淫の女〟は、その後、どのように生きたのだろうか。昭和二十年代前半、進駐軍兵士の腕に、派手な服装で娼婦がぶらさがっていた。昭和三十年頃、ある作家がふと疑問を抱く。あれほど町に溢れていた女たちはどこへ行ったのか?世の中が平和になり、日本が独立国としての威厳を取り戻したとき、かつての女たちも安定した幸せな生活を取り戻したのだろう。もしも、その人たちの前に、忌まわしい過去を暴露しようとする者が現われたら、なにがなんでもそれを阻止するだろう。殺人さえ犯すのではなないか。そう考えたとき、この小説のアイデアが生まれたと述べている。
〝サマリヤの女〟を思う。過去に五人の夫を持ち、いま同棲している男がいた。人目を避け、こっそり水を汲みに来た。そこにはイエスがいて、初めて会ったこの女の、過去も現在も言い当てた。過去を暴露する者が現われたら殺人さえ犯すのではいかと、松本清張は言ったが、サマリヤの女は町に走って行き〝私の不品行を言い当てた人がいる。救い主・キリストかもしれない〟と言ってまわった。自分の恥辱を言い触らし回ったようなものだ。彼女にとっては、自分の過去を隠すより、メシヤ・キリストと出会ったことの方が重要であった。
ヨハネ8章の〝姦淫の女〟が、その後、どのように生きて行ったかは誰にもわからない。だが頭の中にイメージが浮かぶ。自分の恥辱の時代を、誰にも語らず、ひっそり胸に隠して生きていたというのではない。自分の前に、忌まわしい過去を暴露しようとする者が現われたら、なにがなんでもそれを阻止する態度でもない。
「イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」(8:10~11)。
自分の過去を隠すより、メシヤ・キリストと出会ったことの方が重要だ。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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