2025年10月12日 聖協団目黒教会 牧師 横山さおり
「任命」ヨハネ15:12-17
「互いに愛し合いなさい」というイエスの戒めに、自分の力で立ち向かうとき人は惨敗してしまう。自分はダメなキリスト者だという失望は、キリスト者として赦されている喜びまで奪う。聖書の中には、イエスに出会い、人生が変えられた人が登場する。ザアカイ、罪深い女、サマリヤの女。イエスはご自身から彼らの友となられた。いつくしみに満ちたまなざしと、真理のおことばは、彼らを罪から自由にし、溢れる喜びに満たした。彼らはイエスの愛に応えたくて自分ができる限りの力でイエスへの愛と敬意を表した。彼らのイエスへの愛は、彼らを取り囲む人々への愛となり流れていった。イエスの温かな愛が彼らの人生を変えた。彼らはただ陥った暗い罪の深みからいつくしみに満ちたイエスを仰ぎ見ただけだ。彼らはイエスの愛に応答し、イエスへの愛と従順を表した。私たちのイエスへの愛は、応答の愛だ。イエスを愛する喜びは、この世が与える喜びのレベルを超越していた。イエスを愛することは、真の幸せを得る道だ。「わたしの愛にとどまりなさい。」イエスは、人がイエスの愛にとどまり続けて実を結ぶことを求めておられる。実を結ぶことは、枝である私たちにとって幸いなことだ。もし、罪深い女性や、ザアカイが、ぶどうの幹であるイエスから離れて、再び罪の生活に戻ったなら、彼らは満ち足りた人生をおくり続けることはできなかった。イエスは父なる神の愛にとどまり、父のおこころだけを行った。イエスの愛にとどまる弟子たちは、自分の想いではなくイエスのおこころを行うものへと導かれる。そこには真の喜びと幸せがある。父なる神は、私たちを真の幸せの道へと熱心に導かれる。「人が一人でいるのは良くない。」神は人を男と女に創造し、孤独にさせなかった。そうであれば、「互いに愛し合いなさい」というイエスの与えられた戒めは、お互いを必要とし、共存して生きる人間にとっては最も大切で不可欠な戒めだ。私たちが家族や友と向き合い、時に葛藤に苦しみながらもイエスの戒めを守ろうとするのは、私たちがすでにイエスの愛を知ったからだ。自分の無力さにうなだれる私たちにイエスは手を差し伸べて、「生きよ」と立ち上がらせる。イエスは愛する友のためにいのちを捨ててくださった。これより大きな愛を私たちは知らない。このお方が弱さを抱えつつ、イエスに従う者たちに、いつも赦しを宣言してくださる。私たちは弟子としてイエスから任命を受けた。私たちの人生は、涙の谷を過ぎるときがある。炎の中を通るときもある。そんな時にも私たちの心がイエスの愛とイエスの戒めから離れないのは、私たちを選び任命されたイエスの御手が、私たちを捕らえて決して離さず、支えられるからだ。そして、苦しみの通り過ぎた後に、豊かに実を結ばせてくださる。イエスは私たちのそばにいて、熱心に私たちを真の幸せへと導かれる。そして、真の幸せを得た私たちの人生を通して、「わたしはある」という名の父なる神の御臨在と栄光が現わされる。父は私たちの人生を通して、悩める人々をご自身のもとに導かれる。神の愛を知らず、悩み迷う人々を神は求めておられる。弟子の私たちに神の御想いが伝わってくる。「わたしの協力者となってくれないか」「わたしとともに担ってくれないか」と。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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