2018年6月3日
「この神に栄光があるように」 ローマ11:33、36
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
ある日のことである。イエスが中風を患った病人に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」と告げたものだから、律法学者らが「けしからん。神を冒瀆している」と騒ぎ出す。
ある作家の小説だが、国選弁護人が殺人事件の弁護を担当する。強盗、強姦、殺人の嫌疑。難しい事件であったが、弁護士は見事な論証で無実を勝ち取り、一躍世間の脚光を浴びる。ところが、男は実際に〝やっていた〟のである。裁判には、一事不再理の原則があるから、このことが公表されても、犯人は再び罪に問われることはない。むしろこの事件で名を上げた弁護士のほうが不名誉となる。なんと犯人は、自分を無罪に導いた弁護士を脅迫するという怖い結末だ。
イエスが「あなたの罪は赦された」と告げたものだから、検察側が騒ぎ出す。検察側とは、モーセの律法であり、神の法を順守する者たちである。イエスは無罪を宣言するが、被告は実際に〝やっていた〟のである。罪の赦しは道徳の否定、善悪の破棄に通じる。罪が正義の否定であるなら、罪の赦しは正義への挑戦である。
世間にはいるのである。こういう男が…。ゆっくり考えてみれば、こんな罪を犯すような男がまともなわけがない。心の相当深い部分において、反道徳的、反人間的であることは間違いない。そういう男を弁護し、無罪に導き、その罪を無いことにしたのだ。無罪を勝ち取り〝ハレルヤ!〟と、いっときは感謝しても、相手に隙があればすぐにつけいる。聖書は人を救いに導くが、決して甘い書物ではない。見るものはちゃんと見ている。弱い立場にも邪悪な人間はいる。その無気味さをきっかり描いているところに聖書の筆のすごさを感じる。
だが、検察側、律法学者たちといえども、神が罪を赦すことについては何ら疑問を持たなかった。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」(マルコ2:7)。イエスがメシアであるなら、罪の赦しを宣言しても、何の咎もないし、断罪されることでもない。問題は、検察側がイエスをメシアと信じることなく、十字架につけたことだ。神の子キリストが罪の赦しを世にもたらすとき、不可避的に、十字架の道をたどるとの聖書の告知は、ここまで深く刻まれていた。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう」(ローマ11:33)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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