2025年7月13日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「キリストにとどまる」ヨハネの福音書15章1-5節
イエス様は最後の晩餐で弟子たちに「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です」と語られました。弟子たちを「枝」と呼び、「わたしにとどまりなさい」と招かれます。
イエス様は「実を結ばない枝」と「実を結ぶ枝」という二種類の枝について語られました。「実を結ばない枝」は父によって取り除かれます。それはイエス様にとどまらず、十字架の赦しを信じない人の姿です。一方、「実を結ぶ枝」とは刈り込みを受け、もっと豊かに実を結びます。「刈り込み」とは良質なぶどうの果実を収穫するために必要不可欠な作業です。不要な枝を取り除くことで、日光があたりやすいようにしたり、風通しをよくすることで、湿気を好む害虫やカビから、枝や果実を守ります。そしてこの「刈り込み」という言葉は「きよめる」という意味も含まれています。イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしのことばによって、すでにきよいのです」と言われました。彼らはイエス様と生活を共にし、イエス様の教えを聞き、心で信じてきよい者とされました。ですが、彼らはさらに実を結ぶために、刈り込まれ続けるのです。それと同じように、私たちキリスト者は、ますます実を結ぶために、神様によって「手入れ」をされます。何度も繰り返してしまう罪。手放せない憎しみ。いつまでも心を蝕む過去の傷。私たちは、誰にも見られたくない、触れられたくないと思うような心の一部を神様によって触れられ「手入れ」されるのです。「刈り込み」には、痛みを伴うこともありますが、神様は私たちをキリストの似姿へと造り変え、私たちを癒し、罪からの解放と自由を与えようとされます。これは私たちに対する神様の愛の手入れです。では「実を結ぶ」とは何でしょう。それはイエス様の十字架の愛にとどまり、その愛に生きることです。イエス様は、「わたしが、あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられました。私たちは、自分が愛されたようにしか、他者を愛することができません。ですから、私たちは、キリストの愛に生きたいと願うなら、イエス様の愛の内に留まらなくてはなりません。「実を結ぶ」ために必要なことは、木にとどまることです。実は自力で実を結ぶことができません。愛に生きる歩みは絞り出すものではなく、キリストの愛を受けることで、喜びの内に他者を愛する者とさせられていくのです。私たちは今日も、神の言葉、イエス様の十字架にとどまり、豊かな実を結ぶものとさせられて参りたいと思います。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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