2025年7月6日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山さおり

「神のわざ」ヨハネ14:10-14

イスラエルの民ほど神を知っている国民はいない。神はアブラハムと彼の子孫であるイスラエルを祝福し、神の溢れる祝福を周りに受け継ぐ民として召し出した。

神はイスラエルの歴史のなかで御自身を現わされた。しかし、イスラエルに知られていない神の深いお心がイエスによって明らかにされた。(ヨハネ1:18)

イエスと父なる神は一つであった。イエスは、律法を成就するために地に来られた。

イエスの語られるおことばは、時にとても厳しかった。「こころの貧しい者は幸いです。」ということばから始まる山上の説教は、人の心の奥から湧き出る情欲、妬み、憎しみ、高ぶり、怒り、虚栄などを戒める教え、また、隣人への許し、施しなど完全な隣人愛を行うように命じる教えだった。イエスと父なる神の教えは人に完全な愛を求めており、想いの相違はない。一方、イエスは人の弱さを理解して人々に寄り添われるお方だった。イエスから招かれた取税人ザアカイの人生はイエスとの出会いによって180度変わった。イエスは、自分の弱さを知る心の貧しい人に寄り添い、自分を正しい者として人をさばく者には厳しい態度で臨まれた。当時、権威と力を与えられていた宗教指導者たちは罪人や弱い者をさばき、自分を義人と信じる者で、神の御前に傲慢だった。宗教指導者たちは、イエスが行われた数々の力あるわざを見ていながら、イエスを罪に定め十字架につけた。しかし、イエスはご自分を十字架につけた彼らのためにも、十字架の上でとりなし祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。」イエスは罪人に対してどこまでもあわれみ深いお方だった。

旧約に見られる父なる神も人の弱さを理解されるお方だ。神はアブラハムが素直に神のおことばに信頼したことによって、アブラハムを義と認めた。父なる神が行いによってではなく、信仰によってアブラハムを義と認めたのは人の弱さを理解し尽くしておられたからだ。また、神をおそれない頑なな心の者が滅びることをも望まなかった。神はさばきという指導をもって臨み、逆らう者たちが悔い改め神に立ち返ることを願った。(エゼキエル18:25-32)失われゆく人々への神の愛は、神が人のために犠牲になるという誰も予測できない方法で現わされた。イエスの十字架は神の愛の極みだった。イエスが神のもとに帰られた今、弟子たちを通してイエスの大きなわざが行われる。大きなわざとは、人々がイエスを信じ、神の愛を知り、人生が変えられ、真の幸せを得ることだ。イエスの福音が大きな力で拡大していくことだ。アブラハムが父なる神から周りの民族に祝福を受け継ぐ使命を与えられたように、イエスを信じる者は祝福を受け継ぐ使命をイエスから受けている。神がそのための協力を惜しむことはない。(Ⅰペテロ3:8-12)

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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