2025年6月29日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「涙と怒り」ヨハネの福音書11章25-26,32-35節
聖司先生は、いつも説教前に「語るのは愚かな者ですが…」と祈られていました。そこには、神様への信頼と、みことばの力の確信、それを取り次ぐ者としての責務を背負った聖司先生の姿が見えてきます。特に最後の2回の説教では、肉体や声が衰えようとも、ますます力強く現れていくみことばの真実がありました。まさに命をかけて、神のことばを取り次がれた歩みでした。しかし残された私たちは「主よ、あなたがここにおられたなら…」と思わずにはいられません。病の進行する中、私は妻と祈りました。「神様、なぜ聖司先生の病を癒してくださらないのですか。」多くの人が同じように祈ったと思います。ヨハネの福音書11章では、イエス様が、愛する友ラザロの死と向き合われています。「あなたがいてくださったなら…」と訴えかけるマルタの心には、さまざまな思いが垣間見えます。悲しみ、やるせなさ、また、イエス様がいたなら間違いなく病を癒せたという確信。マルタの言葉には、イエス様の神の子としての力への確信と同時に、それを持ちながらなぜ助けてくれなかったのかというやるせなさを感じます。そんなマルタにイエス様はこう語りかけます。「わたしはよみがえりです。いのちです。―あなたは、このことを信じますか。」この中の「死んでも生きる」また「永遠に決して死ぬことがない」というのは、肉体のことではなく、霊のことを指しています。イエス様を信じる人の霊は、たとえ肉体が死んでも、永遠に、絶対に死ぬことがないのです。イエス様は、主への信頼と疑念を抱くマルタに、いのちの主権がイエス様にあるという信仰告白を問いかけました。マルタはこの問いに「はい、主よ」と答えます。聖司先生の肉体は死を迎えましたが、霊は天に召されました。イエス様を信じる者にとって死は人生の終わりではなく、永遠のいのちへのはじまりです。また、ラザロの死を悲しみ泣く人々を前にしてイエス様は「霊に憤りを覚え」られました。この「憤り」という言葉は、内側から込み上げる激しい感情を表す言葉です。イエス様は、死という現実よって心打ちのめされ、心支配され、心引き裂かれている人々の姿を前にして、怒りを燃え上がらせていました。その怒りは、人間の上に重くのしかかる「死」に対して向けられました。神様が愛をもって造られた人間が、死によって涙し、心を支配され、絶望してしまうこの現実はあってはならない。それゆえに、この憤りには大きな慰めがあります。実際、この後イエス様は墓の前で再び憤りを覚えられ、「ラザロよ、出てきなさい。」と大声で叫ばれ、死から命へと呼び戻されました。これは、ただラザロ一人を生き返らせるための奇跡ではなく、それを見た者が、聞いた者がイエス様の「あなたは、これを信じますか」という問いかけに「はい」と答えるためのしるしです。イエス様はマルタに問いかけられました。「わたしはよみがえりです。いのちです。―あなたは、このことを信じますか。」この問いに、聖司先生は人生をかけて「はい」と答えてこられました。この問いに、残された私たちもまた「はい、主よ」と応えて歩んでいきたい願います。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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