2025年5月25日 基督聖協団目黒教会 横山さおり師
「わたしがいるところに」ヨハネ14:1-7
イエスはご自分に依り頼む者たちを深く愛しておられた。しかし、父なる神のみもとに行く時が近づいていた。イエスが離れ去っていくことは、弟子たちからすれば、大黒柱を失うようなことだった。動揺する弟子たちにイエスは語る。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」イエスは神とご自分を同列に置かれ、神とご自分が一つ想いであることをお示しになった。
(ヨハネ14:3)「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」イエスとともにあることは、弟子たちにとって無くてはならない支えだった。今を生きる私たちも同じだ。孤独や苦しみのなか、必死に神にすがり、試練を乗り越えた体験を持つ人は、イエスが自分の生きる土台となっていることを知る。イエスとともにあることこそ人の幸せなのだ。しかし、私たちの想いをはるかに超えて神御自身が、イエス御自身が私たちを御もとに引き寄せたいと強く、深く望んでおられる。御側にいるように神から求められることほど幸せなことはない。
罪を犯す以前、人は神とともにあった。神の愛を受け、神を愛する特別な存在として人は創造された。罪が人を支配したときに、人は、神から遠く離される存在になった。しかし、神は罪の力に縛られた人間を諦めなかった。「わたしがいるところに、あなたがたもいるように。」この強い想いを実現させるために、神はこの地にイエスを遣わされた。
神とイエスの御想いは一つだった。イエスは十字架に向かって進んで行かれた。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。その道も知り得ません。」おびえる弟子にイエスは答える。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとにいくことはできません。」
イエスの犠牲を通して人は神の子とされ、臆すること無く喜び踊りながら神のみもとに行くことができる。真理であられるイエスは、永遠に変わることも、揺らぐこともない正しさで私たちに真の光を指し示す。いのちであるイエスを、メリル・テニイ氏は次のように説明している。「いのちは人々を罪の中から神ご自身のもとに引き上げる、神に起源をもつ霊的な活力を表わしている。」「キリスト教は哲学体系でも、儀式でも、法典でも無い。それは神の生命力の分与である。」信じる者の内に生きて働かれるイエスは、私たちの弱さを通して神の栄光を表わし、人生を変え、私たちを父のもとへと引き上げる。「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにする」私たちが行き着く人生のゴールは、私たちを愛してやまない、父なる神の御むねの中なのだ。