2025年5月11日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「泉」ヨハネの福音書4章13-14節
「この水を飲む人はみな、また渇きます。」イエス様は水や渇きについて、肉体的以上のことを語ろうとしています。それは、私たちの霊についてです。みなさんは霊の渇き、と言われて何か思い浮かぶことはあるでしょうか。もしかしたら、それは言葉にするには抽象的でふわふわしたものかもしれません。たとえば「なんか満たされない」とか。他にもいろんな形がありますが、どれも明確に原因と答えがないようなものだと思います。このようなことの背後には、もしかしたら霊の渇きがあるかもしれません。イエス様はこの霊について「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇きません」と言われました。イエス様が与える水とは、イエス様を信じる人に注がれる聖霊のことです。イエス様を信じると心に決めた時に注がれる御霊のことです。さらに、ここで使われている「飲む」という言葉には、一度きりという意味合いが含まれています。つまり、その水を何度も新しく飲む必要はないということです。そして、「決して」という日本語では少し弱く感じるのですが、決して渇かないという言葉には、ギリシャ語の最も強い否定の形が使われています。これらのことを踏まえてイエス様の言葉を言い換えると、次のようになります。「わたしが与える水を一度でも飲むなら、いつまでも絶対に渇くことがない」そしてイエス様は続けてこう言われます。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」この水が湧き出るということばは「跳ね上げる、湧き上がる」という意味があり、結構勢いがあります。イエス様が与えてくださる水を一度でも飲むと、いつまでも絶対に渇くことがなくて、その人のうちで泉が噴き上げてくるわけです。けれど、私たちの実際はどうでしょうか。そうは言うけれど、ああ自分今神様に渇いてるなあ、と思うことがあるのではないでしょうか。そんなときに私たちは何を求めているでしょうか。一時的に満たしてくれる何かを求めていますか。あるいは、あのとき確かにあった神様の満たしはどこに行ったのかと探しているでしょうか。私たちが渇きを感じる時、私たちに注がれている聖霊に目を向けるなら、湧き上がる泉を見つけるでしょう。一とき静まり、自分を見つめ、注がれた聖霊に目を向けるなら、そこには、イエスさまが与えてくださった水から生まれた、永遠のいのちへの水が湧き出る泉を見つけることになるでしょう。イエス様が語られたことばは真実です。私たちはこの方に信頼し、みことばの真実を確信しつつ歩んでまいりましょう。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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