2018年5月27日
「くじが当たったやぎ」 レビ記16:10、21~22
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
〝戦利品がなきゃ意味ねえなあ〟と、盗み取る。横領した男の名は、アカンと言った。
〝スケープゴート〟という言葉がある。出典はレビ記16章で、神と和解するため、やぎに罪を背負わせ、荒野に放った記述から生まれた言葉だ。「アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し…これを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」(民数記16:21~22)。死出の旅である。イスラエル民族には、スケープゴートの習慣が日常的に存在していた。誰かに罪を背負わせ、自分は真人間のような顔をして生きて行く。誰かの犠牲の上に生きるという姿勢だ。
「彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした」(ヨシュア7:11)。戦利品を盗み取ったのは、アカンだけではなかった。「彼らは」、「自分たちの」と複数形が使われたのは、アカンひとりではないことを示している。複数どころか、盗み取らない者の方が珍しかったのではあるまいか。エリコの町、攻略にあたり、神にまっすぐ向いていた民の心が、金の延べ棒を目の前にし、みんなの心の持ちようが変わったに違いない。アカンは、いけにえとして、スケープゴートとして選ばれたのであり、そうであればこそ、あのトーナメント方式のくじ引きの意味が見えてくる。「そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られた。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られた。ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られた」(ヨシュア7:16~18)。これは、犯人捜しではなく、民の罪を、誰に背負わせるかの問題ではないか。「こうして彼らは、アカンの上に、大きな、石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。そこで、主は燃える怒りをやめられた」(ヨシュア7:26)。こうして、神の怒りはおさまったのだ。
きっと私も、誰かの犠牲のもとで生きているのだろう。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです」(ヘブル9:26)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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