2025年4月13日 基督聖協団目黒教会 馬上真輝師
「神はどこにいるのか」マタイの福音書27章45-50節
時は正午12時。昼間にもかかわらず、空は暗闇に包まれていました。イエス様は6時間もの間、十字架刑の痛み、苦しみを受けておられました。そんな苦しみの中、イエス様は大声で叫ばれます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」イエス様は想像を絶する肉体の苦しみを経験する中、同時に神との断絶という霊的な苦しみをも経験しておられました。人として地上に来られる遥か前から、父なる神、聖霊なる神と親しい愛の交わりの中にあった子なるイエス様が、十字架上という愛とは最もかけ離れたところで究極の孤独を感じます。そんな中にあってもイエス様は、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と問いかけます、、、しかし、問いかけても返事はありません。神様は、何の罪もない息子が十字架で苦しんでいるのに、なぜ放っておくのでしょうか。イエス様の叫びを聞いた群衆は考えました。「この人はエリヤを呼んでいる」「エリヤが救いに来るか見てみよう」彼らは「エリ、エリ」と叫ぶイエス様の声をエリヤを呼んでいると聞き間違え、皮肉にも、救い主であるイエス様を前に、十字架から救い出す別の救い手を待っていました。イエス様の苦しみの意味、その訳は、誰も理解することができなかったのです。そしてイエス様はついに死を迎えます。イエス様の死は、人の目には十字架に架けられて死んだと映ります。しかし実際には、イエス様はご自分の命に主権を持っておられました。イエス様は自ら十字架にかけられることを選び、そして最後には自らの霊を父なる神に明け渡したのです。この事実は、イエス様の神としての力を示しいています。またイエス様の十字架上での死は、預言の成就でもあります。人が罪に陥った最初の時から、神様が人を救うために建てていた計画が完了したという宣言でした。息子であるイエス様が十字架の上で苦しんでいる時、父なる神様は、同じく十字架の上にいました。父なる神様はイエス様の問いかけに対し沈黙を貫きましたが、その場にいなかったわけでも、見捨てたわけでもありません。ともに痛み、苦しんでいたのです。愛するすべての人々が、罪のゆえに滅びに向かっていくなら、わたしが代わりに行く。その決断は、父なる神ご自身のものでもありました。神様は、痛みの中に、苦しみの中に、共におられたのです。もし私たちのうちに叫びがあるならば、それを心のうちに秘めておく必要はありません。神様の前にありのまま注ぎ出しましょう。私たちが痛み苦しみ、神様に叫ぶとき、神様はここにいて、私たちと共にいてくださいます。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です