2018年5月20日
「鏡とせよ!」 民数記16章
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
ある朝、会社に出勤しようとしたとたん、足が動かず歩けない。自分自身では〝会社に行かなくては…〟と思っているのだが、なにか会社に嫌なことがあったりすると、心の奥底に潜む造反分子が、足を動かす神経系統を占拠して会社に行くのをやめさせてしまう。人間の心の中にはこういう造反分子がいっぱい潜んでいるのであり、こいつらが跳梁跋扈して収拾のつかぬ状態になれば、これ如何にせん。〝敵は本能寺にあり〟と、明智が信長に対し弓を引く。造反分子は身近にあり、自分自身が最大の敵であるケースも世間にないわけではない。
民数記16章には、モーセに対する造反分子が、反逆を起こしたコラの話が記されている。
「レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった」(16:1~2)。
人間なにかに不満を抱くことは、それほど大きな欠点ではあるまい。欠点かもしれないが、罪に問われることではない。盗癖があるとか、酒乱だとかに比べれば社会的に十分に許容されるだろう。ところが民数記16章では、このさほど大きな欠点とは思われない〝不満を抱く性格〟が、反乱の動機を作り、反乱をそそのかし、滅びの結末もまたコラ自身の不満と結びついている。初めから最後まで、なにもかもが〝不満〟のせいであり、それが〝性格〟というものなんだと、世になる典型を凝視している聖書記者の眼差しは確かで鋭い。〝性格〟だけで、ある事件ひとつ書けてしまうのが聖書記者の特長である。
この事件の結末は興味深い。「そこで祭司エルアザルは、焼き殺された者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、イスラエル人のための記念とした」(16:39~40)。コラの反逆に対する神の怒りを「記念」とし、将来この「記念」は会衆を訓戒するだろうというわけだ。日本流に言えば、「鏡(かがみ)」にしたのである。過去の歴史を「鏡」とし、自分たちの姿を正そうとの訓戒である。「コラやその仲間のようなめに会わないためである」(16:40)。〝聖書のことばは鏡なり、これにより己の姿を正すべし〟。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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