2025年3月2日 基督聖協団目黒教会 馬上野々花神学生
「新しく生まれる」コロサイ2章10-14節
本日の聖書箇所はパウロがコロサイの教会に送った手紙の内容です。パウロはこの手紙を書き記したとき、牢屋に繋がれていました。パウロにはこのコロサイ教会にどうしても手紙を通して伝えなくてはならないことがありました。それは、コロサイ教会が、キリストの理解について混乱し、キリストに属さない教えが教会に入り込んでいるという情報が耳に入ったからです。コロサイ教会の異端がどのようなものであったのかは、様々な憶測があり、それを断定することは困難ですが、この手紙を読むと、「安息日」「食べ物や飲み物」の規定を守ること、さらに「割礼」を行うことを何者かがコロサイ教会の人々に求めていたことがわかります。律法の規定を守ることで救われる、神の民とされる、という教えをパウロは拒みました。
パウロは11節で、私たちは「キリストの割礼」を受けたと言います。キリストの割礼とは、まさに十字架を指しています。イエス様は肉体の一部分ではなく、肉体の全部、いのちのすべてを「切り捨て」られました。神への従順の故に、十字架上で痛み、もだえ、苦しまれたのです。そしてそのキリストの苦しみ、流された血の故に、私たちの罪は聖められたのです。十字架は私たちを聖なる者として定めます。私たちが自分の罪を認め、キリストの贖いを自分のものとして、信じ、受け取った時、古い人は滅び、新しいいのちがはじまっているのです。
コロサイ教会の中に潜む、ユダヤ主義は救いの条件として割礼を求めました。自分の包皮を自分で切り取り、それによって自らをきよくして、神に受け入れられる者となることを求めました、それはまるで、キリストの贖いだけでは、私たちの救いは完成しない、不十分であると言っていることと同じです。私たちにも同じような問題が潜んでいるかもしれません、自分は救われるために、善い行いをしないといけない。自分は救われるために、イエス様以外の何かが必要な気がする。そう感じてしまうようなことがないでしょうか。パウロが獄中から、どうしても伝えなくてはならなかったのは、この福音理解のゆがみを正すことでした。私たちを罪からきよめることができるのは、イエス様の十字架の血潮だけです。そして、イエス様の十字架による罪の贖いが、私のためであったことを受け取り、バプテスマを授かったそのときから、私たちは、新しい人としての歩みがはじまっているのです。コロサイ教会の人々が救われるにあたって割礼は必要ありませんでした。聖書に記されているように。私たちの救いに必要なのはイエス・キリスト、ただお一人です。私たちは信仰によってすでに義とされているのです。主を見上げて参りましょう。この事実を大胆に今日受け取って参りたいと思います。