2025年2月16日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「そうなんだよなあ」エペソ人への手紙1章4-5節
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」暴君信長は、自分の意に添わず鳴こうとしないホトトギスは即座に殺してしまうだろう。一方、鳴かないホトトギスに対して、苦労の天下人、秀吉は自らで鳴かせてみせ、ゆっくりと機が熟するのを待った家康はその時を待っただろう。「そうなんだよなあ」誰かの俳句を通して三人の英雄の性格を端的に知り、歴史への理解を深める。このように、私たちにも神や救いについての理解が深まる瞬間がある。心に深い平安が訪れ、新たな目が開かれる。
「すなわち神は私たちを世界の基に置かれる前からキリストの内に選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神はただ、みこころのままに私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:4-5)
パウロのこの言葉によれば、教会との結びつきは、私たち自身の決意や選びに決め手があるのではなく、神の決意や選びに決め手があるという。「私は横山を選び教会に結び付ける」それは世界の基の置かれる前から決められていたことである。そうなんだよなあ。私たちが自分でした決意は絶えず、動揺に脅かされる不確かなものである。人間主体の信仰ほど不確かなものはない。
使徒の働きの中に見られるパウロの姿は神の決意と選びの表れだった。キリスト者を迫害していたパウロであったが、復活のイエスと出会う。そして主はパウロが伝道者としての神の選びの器であることを訴えた。パウロはこう言う。「今では神を知っているのに否、むしろ神に知られているのに…」(ガラ4:9) パウロは神が私たちを知っているという。人間が神を捉えているのではなく、神こそが私たちを知り捉えておられるのだ。この信仰は猿と猫に例えることができる。母猿は、自らの手足の四肢を使って木から木へと渡り歩くので、移動の際、母猿は子猿をその手で抱くことができない。子猿は自らの力で母猿にしがみつかなくてはならず、子猿が油断すれば転落する。しかし猫の場合は全く異なる。母猫は子猫をくわえて移動する。子猫は油断しても転落することはない。決め手を握っているのは母猫であるからだ。私の信仰は猫タイプである。私はただ「アバ、父よ!」と父であられる神によって、知られ、捉えられ、子猫のように父なる神に抱かれ、抱きあげられ、この複雑な人生を移動しているだけである。
私たちと父なる神との結びつきは、経験としては、私自身が決意し私自身が選び取って教会に行くようになったと言える。だが、そんなものは建前で合って、真実はもっと別なところにある。「神はみこころのままに私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」人間が神を捉えているのではない。神の側があなたを捉えている。救いの確かさは捉えていることの確かさではない。捉えられていることの確かさである。「そうなんだよなあ」