2018年5月6日
「私たちの国籍は天にあります」 ピリピ3:20
基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
昔、本屋で「無宿人別帳」のタイトルが目に飛び込んで来た。奥行きの深い言葉だと思った。〝無宿〟とは、字面は正にホームレスだが、そうではない。江戸時代の正確な定義は、戸籍を持たない人、つまり人別帳に名前の記載のない人のことだ。人間として生まれながら、人間としての登録を持たない哀れな人々である。人別帳に記載のないことが無宿であるならば、無宿人別帳はそれ自体、矛盾した言葉を重ね合わせていることになる。にもかかわらず、作者が敢えてこれをタイトルに掲げるのは、〝無宿者に人別帳などあるわけがない。だが、哀れな者たちのために記録に残し、その存在をたどってやろうではないか〟という作者のモチーフが、わかる人にはわかる仕掛けになっている。含みがあるとはそのことである。
私たちは、楽園に生まれ落ちたわけではない。楽園の外に産み落とされた者、楽園に戸籍を持たない存在ではなかったか。人間は、根っこの部分、根本的なところに大きな問題を抱えていて、その上に何を積み重ねてもろくなことがない。人間の根っこの部分にある大きな弱点とは何だろうか?
神の戒めに背き、アダムとエバは禁断の実を取って食べた。禁断の果実そのものに、人を死に導く毒があったわけではない。本当の問題は、神の掟に対する女の態度そのものが、また女の態度を受け入れた男の態度そのものが原罪を生み、悲劇を招いた。人間の悲劇と原罪、すなわち、価値、秩序の混乱、基準の倒錯、調和の破壊、ちっぽけな己の視野に閉じこもること、自分自身が万物の尺度となること…。
人生には幾つもの分かれ道があって、その都度、一本を選んで、いまの私がある。選ばなかったほうの道を行ったら、そこには別の人生があったのも本当だろう。キリストが私の心の扉を叩いていた。人生の分かれ道である。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。十字架と復活の出来事を通し、(御国に戸籍のない者たちのために記録を残し、その存在を辿ってやろうではないか)、「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)とイエスは言われた。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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