2024年9月22日 基督聖協団目黒教会 牧師 横山聖司
「その時は死ぬのだ」イザヤ53:5,8
トルストイのアンナカレーニナの冒頭に聖書の言葉が引用されている。「復讐はわたしのすることである」この作品は姦通文学である。アンナは夫の部下若き将校と恋に落ちて夫を裏切る。こういう設定に神が登場し、裏切られた夫に代わって神が復讐する。アンナは自殺する。イザヤ書63章に返り血を浴びた神が登場する。アンナのような者を踏みつぶし鮮血が飛び散るそれが神の着ている白い衣に返り血となって神の衣が真っ赤に染まっている。ところがトルストイの回心が起こり、以後、著作からは怒りと裁きの神は姿を消し、ひたすら、赦しと愛の神だけが登場する。これをトルストイは、上手いたとえで説明する。「要するに、回心が起こったのは、ある用事のために家から出た人が途中で忘れ物に気づいて家に向かって引き返すようなものだ。」と言っている。道を引き返すと何が起こるか今まで右側にあった者が全部左側になる。正反対になる。それが自分の心の中で起きたと言っている。トルストイは貴族で豪農で資産家だ。貧しい農民をこき使って富を貯えるキリストのもとへ帰るまではそのような生活が魅力的だった。回心が起きたら、魅力的と思っていたものが呪われた虚しいものとなった。忘れ物を取り戻すとはそういうことなのだろう。トルストイには「戦争と平和」もある。敗戦後少年たちは学校の先生から「もう日本は戦争をしない。軍隊も持たない。大事なことは憲法で決めると教えられた。「でも先生!悪い奴に攻められたらどうするの。丸腰じゃ心細いよ」と心配した子供たちは大勢いたに違いない。「その時は死ぬのだ。ひどい侵略にあえばこの国は無力だ。「そのときは死ぬのだ」今の日本でそれ以外の選択肢があるとは思えない。回心した者として「人を殺すくらいなら自分が死ぬ。私には人を殺せないと思う。究極の理想論かもしれないが、理想のために死んで何が悪い。今の日本で想定可能な、あの国この国に侵略され、何のために死ぬのかもはっきりせず犬死するより、「人を殺すくらいなら自分が死ぬ。」そんな理想のために死ぬのならそれはそれで仕方がない。自分が死ぬのは嫌だが、人を殺すのはもっと嫌だ。おそらく私にもあのお方にも人は殺せない。おまえを殺すくらいなら自分が死ぬ。私を踏みつぶしおびただしい鮮血が噴き出し神の衣が真っ赤に染まる。だが、お前の血は一滴たりとも流させない。お前を殺すくらいなら自分が死んで血を流す。理想のために死んで何が悪い。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた」(イザヤ53:5,8)。

カテゴリー: 礼拝メッセージ

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